4周目。しばらくインテンシヴ・リーディング モードで。
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4章はさておき、1章の議論構成を見る限りでは、「死」というトピックは、ほかのトピックでは代替不可能なもののように思われるわね。
しかしそれ、ほんとにそうなのかな。
4周目。しばらくインテンシヴ・リーディング モードで。
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4章はさておき、1章の議論構成を見る限りでは、「死」というトピックは、ほかのトピックでは代替不可能なもののように思われるわね。
しかしそれ、ほんとにそうなのかな。
第二章 行為と自己理解──行為者性に対する実存論的アプローチ
- 1 行為とは何か──議論状況の概観
- 2 行為能力の理解──理解の存在者的意味
- 3 目的であるもの・有意味性・世界内存在──理解の存在論的意味
- 3-1 目的であるもの
- 3-2 有意味性
- 3-3 行為者性に対する実存論的アプローチ
- 4 行為の共同性と自己理解──世人論の射程
- 5 動物でもなく主観でもなく──不安再説
行為における固有の「視(Sicht)」[つまり配視(Umsicht)]は、観察的に事物を眺めやることではなく、まさに単一の事物の感性的知覚として特定されるような作用を行わない。だが、かといって、配視は、そうした作用よりも曖昧、盲目的、衝動的だということはなく、むしろ、あまりにも高度に構造化されているからこそ単純な感性的知覚としては把握できないのである。(p. 69)
いいこと言った。
でも、そういうの どうやって研究しますかね。
H・ドレイファスによれば、
ハイデガーとメルロ=ポンティは、実質的に、身体かされた技能的対処者は、ギブソン──彼はメルロ=ポンティに影響されていた──がアフォーダンスと呼ぶものに直接的に応答すると考えている。食べ物は食べることをアフォードし、ドアは入ることと出ることをアフォードし、床は歩くことをアフォードする等というように(Dreyfus 2005, 12)。
つまり、ある意味で真偽について語りうる限り、「知識」の性格は(認識から区別された)実践的行為の場面でも残り続ける。(p. 77)
[…] 行為能力の非明示的理解に行為者性の柱を見出すやり方は、内観的手法に代わって、行為能力 と 存在者の自己呈示 の志向的連関 に行為の在りかを見出す現象学的アプローチのひとつの特徴と言って良いだろうし、アフォーダンスに基づく行為論とも部分的に一致を見るところである(河野 2007, 49)。
しかしながら、ハイデガーが「理解」概念によって解明しようとしている事柄はこの先にある。(p. 80)
中間的なまとめ。
[…]行為能力に精通しており、或ることを「私はできる」と存在者的に語りうる存在者(行為者)であるためには、…、簡略に言えば、次の二点が、その「私」の存在性格として認められなくてはならない。
- 私は、現存在として、自らの存在を 目的であるもの[Worumwillen] として理解している。
- 私は、現存在として、この 目的であるもの を自己観察によらずに 情態的に理解している。(p. 94)
(38) 以前のドレイファス(Dreyfus 1991)には、技能的交渉、行為の共同性、自己理解 の相互連関を探求する姿勢が随所に見られた。しかし、より最近のドレイファス(Dreyfus 2005)は、彼自身の反表象主義を推し進めるために、現存在に固有な「自己」の理解──つまりは実存──が ハイデガー哲学において果たしている中心的役割を度外視する傾向が顕著になっている。(p. 229)
こんなところに罠があるとは・・・!
この講義で、「不安」ではなく「退屈」という情態性を取り上げた事情について:
『存在と時間』において、私たちがさしあたってたいてい日常的に私たちの世界の内で自らを動かしている仕方を解釈することを通じて世界現象の最初の特徴づけを試みた(GA29/30, 262)
ことを回想している。そして、
しかし、この解釈によって、スプーンやフォークを使用したり、路面電車に乗ったりする点に人間の本質が存すると主張し証明しようとすることなど、私には思いつきもしなかった(263)
と読者側の反応を嘆いている。そこでの問題はあくまで「世界」現象だったのであり、この点を明らかにするために、ハイデガーはこの講義で、『存在と時間』における日常性の解釈学の道の代わりに、人間と動物(および石)の「比較考察」(ebd.)という新たな道を選ぶのである。(p. 230)
そこは動物に逃げずに正面から突破しようよ!!
この章むつかしいわ。
第三章 道徳性の実存論的-存在論的基礎──『存在と時間』におけるエートスの学
- 1 善悪に基づく責任概念に対する存在論的批判
- 2 自己統制と道徳的懐疑
- 3 責めある存在──道徳性の実存論的基礎
- 3-1 責めの実存論的分析──非力さからの出発
- 3-2 選択と自由
自己統制下にない環境上の要因が道徳的評価を左右することは否定し得ないのであれば、行為者の環境依存性を単に道徳を脅かすものとしてではなく、道徳的責任を負いうる存在者の存在様式として認め、その存在様式の中に位置づけていく必要があるのではないか。(p. 127)
ごもっとも。
中間的なまとめ:
ハイデガーは、
- 現存在は自らの存在を意のままにしていないという被投性の側面と
- 現存在は自らの存在の根拠であることを引き受けるという企投の側面の
内在的連関を問いたずねる中で、責め の本来の意義を求めていく。その中で、ハイデガーの議論は、「責任を感じる」という責任感受的存在者の存在論的分析としての意義を獲得するだろうし、意外にも、その本質部分においてカント倫理学の実存論的展開であることも明らかになるだろう。(p. 130)
「独我論」なる語の意味がわからぬ。