本日の涜書

Harold Garfinkel & Anne Rawls, "Ethnomethodology's Program: Working Out Durkheim's Aphorism"、2002/07(p.121-2)

二クラス・ルーマン『社会の法』馬場靖雄/上村隆広/江口厚仁訳、法政大学出版局、1993→2003/12、(上)


並べて読むと、泣けますな。

中野正大&宝月誠編『シカゴ学派の社会学』 世界思想社 、2003/11
小熊英二『清水幾多郎:ある戦後知識人の奇跡』お茶の水書房、2003/11

寺岡伸悟「日本社会学シカゴ学派 p.340-342

 大正時代は、社会問題・社会改良への関心が高まった時代でもある。これらの調査に社会学の理論や方法論を導入する役割を果たしたのが、大正時代は、社会問題・社会改良への関心が高まった時代でもある。これらの調査に社会学の理論や方法論を導入する役割を果たしたのが、最初期の社会学者[‥‥]戸田貞三(東京大学であった。
 今日家族社会学者として知られる戸田貞三は、講師時代にシカゴ大学で1年間学び、シカゴ社会学を直接「体験」した社会学者でもある。彼は調査方法論の紹介者としても大きな役割を果たした。現実の社会問題を研究対象とするシカゴ社会学の姿勢や方法論を知り、社会調査の教科書を記した。社会改良に強い関心を抱いていた戸田は帰国後まもなく関東大震災を経験する。東京は大変な被害を被った。彼はシカゴのセツルメントに倣い東大セツルメントを建設、「講義より社会」を実践する。この情熱的な行動は、教え子の磯村英一に受け継がれていく。しかし戸田自身の、社会改良のための社会学という姿勢は、帰国後の数年間をもって影を潜めていく
[‥‥]シカゴ社会学の価値を調査姿勢とモノグラフに見いだし、精力的に紹介したのは、戸田の教え子、磯村英一であった。[‥‥]
 磯村は日本の都市社会学の草分けの一人といわれる。震災の際、戸田が建設した東大セツルメントでの救済活動を通じて、彼は都市の底辺社会やそれらに学問として果敢に取り組む姿勢と出会う。磯村は、1926年東京市に就職し、シカゴ・モノグラフを中心とする社会学に触発されながら、自らも都市社会の調査研究を行った*1。それと並行して、学会誌にシカゴ学派のモノグラフや理論書を次々と「紹介」していく。[‥‥]

小熊:p.18

[‥‥]清水にとって「インテリ」志向は、スラムから脱出するための手段でもあった。高校を卒業した清水は、1928年に東京帝大文学部の社会学科に入学した。ところが開講第一日日に、主任教授の戸田貞三は、「この社会学科には、時々、とんでもない馬鹿な学生がやつて来る、馬鹿な学生というのは、社会学を勉強して、それで現代の社会問題を解決しょうとか、世の中を良くしようとか考えている学生である」と一喝した*2
 清水が大学に入学した前月の1928年三月には、共産党の大量弾圧事件である三・一五事件が起きており、また四月には東大新人会が解散を命じられていた。そうした状況のなかで、戸田は社会学マルクス主義を切断しようとしていたのである。
清水は戸田の言葉を聞いて失望し、一時は教授の意向に逆らってマルクス主義を学ぼうかと考えたが、それは断念した。その理由を、彼はこう述べている*3

私は社会学の研究を通じて現状からの脱出を企てていました。現状からの脱出、とはいかにも体裁のよい言葉ですが、簡単に言つてしまえば、出世したいということになるでしよう。世の中を良くしたいのも嘘ではありませんが、その世の中で立派な地位に就きたいというのも本音です。‥‥マルクス主義は、出世とは逆の方向と言わねばなりません。

*1:清水幾多郎、1973、「戸田貞三先生のこと」『思想』587号、岩波書店

*2:清水幾多郎『私の心の遍歴』359頁

*3:清水幾多郎『私の心の遍歴』365頁