1700年あたり>関係としての philia/質としての philia

第7章11段落。

第5章注8も参照のこと。
前提になっているのは、「カテゴリー」についてのこの議論か。

岩波文庫版(高田三郎訳)から引用。

 そして、われわれは、普遍的なそれto katholou の問題を考察し、それがいかなる意味において語られるかを問題にしておいたほうがいいであろう。「形相eidos」なるものを導入したのはわれわれの親しきひとびとであるからして、かかる探究は険阻な相を示すのであるが──。真理の確立のためには、しかしながら、親しきをも滅することがむしろいいのであって、それがわれわれの義務でもあると考えられるであろう。殊にわれわれは哲学者・愛智者なのであるから。けだし、真理も、親しきひとびとも、ともにわれわれにとって愛すべきものではあるが、真理に対してより多く尊敬を払うことこそが敬虔な態度なのである。
 この説を導入したひとびとは、先とか後とかの認められるごときものについてはイデアを樹てていないのであって、彼らが「数」のイデアというものを措定しなかったのもこの理由に基づく。しかるに「善agathon」は、本質to ti の場合においても、質poion の場合においても、関係pros ti の場合においても語られるのであるが、「それ自身独立的に有るところのもの」すなわち実体 は、その本性上 関係 に先だつものでなくてはならぬ。なぜなら、後者は「有るもの」のひこばえともいうべきもの、「有るもの」の付帯性たる位置にあるものなのであるから。してみれば、かかるすべてに共通なイデアはありえないわけである。
 さらにまた、「善」ということは、「有on」というのと同じだけの多くの仕方で語られるがゆえに、(すなわち、本質 にあってはたとえぱ神や知性ヌースが、 にあってはもろもろの 卓越性(徳)が、量poson にあっては適度が、関係 にあっては 有用 が、時間 にあっては 好機kairos が、場所 にあっては 適住地 がというふうに、これらがいずれも善だとされる、) 「善」はこれらすべてに共通的な一なる或る普遍でありえないことは明らかである。というのは、もし然りとするならば、それはかかるすべての 範疇kathegoria において語られず、ただ一つの範疇において語られるのでなくてはならないだろうからである。......

この「分類」に基づいて、「愛には3種類あるよ」説が展開される(ex.第8巻第2章、3章、13章):

 これらの[愛はひとつなのか、それともいろいろなのかという]問題は、おもうに「愛されるべきもの」「親愛に値するもの」phileton の何たるかが知られることによって明らかになるであろう。事実、あらゆるものが愛されるのでなく、「愛されるべきもの」が愛されるのであると考えられる。「愛されるべきもの」とは、しかるに、善きものagathon か、有用なものxresimon かのいずれかであろう。だが、有用なものとは「それによって何らかの善または快楽が生ずるところのもの」の謂いであると考えられなくてはならないだろうから、したがって、それ自身 目的telos として愛されるべきものは、善きものと快適なものとでなくてはならぬ。[略]
 かくして、人々が愛するゆえんのものには三つあるのであるが... (第8巻第2章:1155b)

 このように動機には種別があるのであるから、したがって、愛情philesis ないしは 愛philia というものにもまた種別が存している。かくて愛の種類は、「愛されるべきもの」[=善/快楽/有用]と同数で、三つある。(第8巻第3章:1156a)

すなわち、

  1. 善ゆえの愛
  2. 快楽ゆえの愛
  3. 有用ゆえの愛

と。
また曰く: