スミス『感情労働としての看護』

読了。良書。

監訳者さんは、もと看護婦で、のちに大学の先生になったかただとのこと。で、訳者あと書きのここがピンとこなかったんだけども、これはいったいどういうことなのか:

この感情労働という言葉を私がある論文で紹介したとき、うれしいことに多くの臨床の看護婦たちが、ようやく自分たちの仕事を理解してもらえる言葉に出会えたとたいへん喜んでくれました。そして、看護婦以外の人々も理解を示してくれました。そこで本書を翻訳し、広く読んでいただこうと思い立ったのですが、一方で面白いことが起こりました。大学教員のなかに否定的な反応を示した人がいたのです。もちろん、詳しい内容を知らずにですが、「感情労働」という言葉そのものに拒絶反応を起こしたのです。 おそらく、そこにはこれまで看護が、「白衣の天使」という言葉に象徴されるように、「愛と献身」という情緒的なイメージで語られることが多かったという歴史的事実が関係していると思われます。そのために、医療のなかの付随的な役割に押し込められ、専門職としての看護や学としての看護学の成立が阻まれてきたということを、多くの看護学の先輩たちは苦々しく思ってきたのです。さらに、看護の領域だけでなく、社会のあらゆる分野で、感情というものが理性より一段低く見られてきたこと(とくにアカデミックな世界でそれは顕著でした)も影響しているでしょう。とにかく、近代合理主義からすると、感情は女子どものもので、理性によって制御されるべきものと考えられてきたのです。[略] そうした感情というものに対する社会的評価が、女性の職業としての色彩の濃い看護に強く影を落としていたのです。[上掲書270頁]

知りたいのは「大学教員のなかに否定的な反応を示した人がいた」その理由。


えーっと:

  • これまで看護は、情緒的[=感情的]なイメージで語られることが多かった。
    • そのために、医療のなかの付随的な役割に押し込められ、「専門職としての看護」や「学としての看護学」の成立が阻まれてきた(と考える人がいた)。
      • この前提には、理性に対して感情を劣位に置く考え方があるのだが、そこで、
      • この考え方=図式を維持したまま 上記の事情をひっくり返すと、こういう考え方がなりたつ:
    • 「専門職としての看護」「学としての看護学」の成立のためには、看護というものを、単に「情緒的(=感情的)」なイメージで語るのはよろしくない、と。そこで、そのように考えた人たちは、
  • 感情(労働)」という語でもって、「看護」を形容することをいやがった。

という趣旨だと理解してよいですか。


あぁ。よいみたいですね。よかったよかった。わかったわかった。背景色つけたところが欠けてるから、推論がぶっとんでみえる、ということなのでしょう、と結論。