昼食。
「『性の歴史』への序文」再読。ついでにほかのも読む。アリエスについてのこの↓二つが、ちょうどこのところ再考していたこと*1にヒット:
- 「真実への関心」
- 「歴史のスタイル」
前者は追悼文。後者は雑誌対談。
「バシュラールがあつかっていたような主題は、つい最近まで歴史家の扱う対象ではなかったのだ」とかの揶揄(?)に はたと膝を打ってみたり。どっちも短いので、なにか強い主張を引き出せるほどの材料はないですが。
ちと気になったのは──というか以前から気になっていたことをさらに改めて思い出してみてしまったのだが──、フーコーが謂う「社会史」という言葉が、私の知っているそれとはずいぶん違うようだ、ということ。
こういうのは、「現象学」とか「解釈学」とかについても感じることだけど、この二者について言えば、フランスにおけるそれらの受容・展開の「偏向=偏見*2」を考慮にいれれば なんとかそれなりに理解できそうに思えるわけです。が、社会史についてはなぁ....。(おそらく私のほうが「偏向」してるんでしょうw。)
そこがそもそもずれているっぽいので、「いわゆる社会史」の どの側面に対してフーコーが距離をとろうとしているのか、が やはりわからないのだった。やはり諦めて(?) 『考古学』まで先日この(<フーコー/社会史>-区別)ネタでひとと話していたとき、『考古学』には「長期持続とかってどうよ?」て言及があったでしょ、とかコメントをいただいたのだが....(そうだっけ? ぜんぜん覚えてないよ)。
戻るしかないか...。めんどくせ。『性の歴史』つながりで、こちらも。
ドレイファス+ラビノウとの鼎談:
- 「倫理の系譜学について:進行中の作業の概要」
自分仕事俺様紹介:
- 「フーコー」(@『哲学者辞典』)
エヴァルドによるインタビュー:
- 「真実への気遣い」
これ↑は爆笑もの。(あるいみ)傑作インタビュー。
ほかのもひさびさにざっくりと目を通してみるテスト。