涜書:フーコー『ミシェル・フーコー思考集成X:倫理・道徳・啓蒙』

3を読んでたら むつかしくて気がめいって来たので笑える箇所の引用をして景気をつけてみるテスト:

  • 350「真実への気遣い」(1984エヴァルドによるインタビュー)
    • これまで刊行された著作によって人があなたに関して抱くイメージは、監禁の思想家、隷従し、拘束され、規律づけられた主体の思想家というものです。『快楽の用途』と『自己への気遣い』は、自由な主体というまったく異ったイメージをわれわれに与えてくれます。あなた御自身の思想にある重要な変化があるのだと思われますが。
  • 知と権力との諸関係の問題に戻らねばなりません。なるほど私は、一般的な読者の眼には、知は権力と混ざり合っていると述べた者、だから知は支配の諸構造のうえに被せられた薄い仮面にしか過ぎず、そしてそういう諸構造はつねに圧制であり、監禁である、等々と語った者と見えているかもしれません。その最初の点に関しては、私は大笑いして答えにしたいと思います。もしも私が知とは権力であると述べたのならば、あるいは述べたかったのならば、私はそう言ったことでしょうし、そしてそう言ってしまったのだからもうなにも言うべきことはなかったでしょう。というのも私がそれらを同一視したのなら、なぜ私がこれほど執拗に知と権力がとり結ぶ多様な諸関係を示そうと努めてきたのかその理由がわからなくなるからです。
    私がまさしく見きわめようと専念してきたことは、同一のタイプに属する権力のある種の諸形態が、いったいどのようにして多様な知を、つまりその対象においてもその構造においてもきわめて異っているさまざまな知を生じさせることができたのかということです。
    病院・施療施設に関わる構造の問題をとり上げてみましょう。それは精神病院的なタイプの収容を生じさせましたが、それには精神医学的な知の形成が対応しており、その知のエピステモロジックな構造には相当疑わしい点がありえます。しかしながら別の本の中で、つまり『臨床医学の誕生』において私は、これと同じ病院的な構造のうちで、どのようにして解剖=病理学という一つの知、すなわちまったく別の科学的豊かさを持つ医学を基礎づけたような一つの知が発展していったのかを示そうと試みました。ということはつまり精神医療による収容、医学的な入院という具合にかなり類似した権力の諸構造、制度的諸形態に立ちあっているのですが、それらに結ばれているのは相違する知の諸形態であるということなのです。そしてそういう異った知の諸形態の間に確立しうるのは、さまざまな条件の交わりや関係などであって、原因から結果への関係ではなく、ましてや同一性の関係ではない、ということなのです。
    私が知とは権力の仮面であるとみなしている、と言う人々は、理解する能力を持っていないのだとしか思われません。そういう人たちに答えるべきことは、ほとんどなにもないのです。



ところでここに続く次の箇所は、ごくごくあったりまえのことを言ってるだけなのだが、フーコー先生がいうと こういうのも なんとなくカコよく聞こえてしまうという罠。

    • この二冊の最近作は、政治学から倫理学への移行のようなものを徴しづけています。この機会に人々はあなたから次のような問いに対する答えを期待しているに違いありません。「なにをなすべきなのか? なにを欲するべきなのか?」
  • 一人の知識人の役割とは、他者に向って彼らがなにをなすべきなのかを言うことではありません。いったいどんな権利によって、そんなことをなしうるのでしょう? 
    それに過去二世紀にわたって知識人たちが述べたあらゆる予言、見込み、指令、プログラムなどを思い出してみて下さい。そしてそういうものの結果がいまどのようになっているかも想起してみて下さい。
    一人の知識人の仕事とは、他の人々の政治的な意志を捏ね上げることではありません。それは、彼自身の活動の領域・専攻分野において彼が行うさまざまな分析を通じて、自明なこと、公準と思われていることを再度問い直し、さまざまな慣習、思考や行動の様式に揺さぶりをかけ、一般に認められている平俗な馴々しさを一掃し、諸々の規則や制度をもう一度測定し直し、そしてそういう再-問題化の作業──そこでは彼は知識人としてのその特有な職務をはたすことになる──から出発して、ある政治的な意志の形成に参加することなのです──そこでは彼は一市民としてのその役目をはたすでしょう──。