直前↑のエントリについて。森さんにいただいたコメント:
──さて、ここで思ひつき。もしもこのフーコーのインタヴューでも、かかる蓮實重彦氏といふインタヴュアー兼邦譯者のバイアスゆゑにこのやうな方法論と方法との混同があったとしたら? フーコーも亦、方法の人であって方法論の人ではなかったとしたら?
ハスミ大先生のバイアスは一考の余地があり、面白いご指摘だと思うのですが、うまくリアクトできません。
いずれにしても、<方法/方法論>という区別が──これでもってなにがいえるのか(なにかいえるのか)を──、フーコー自身の言葉に即して再構成できるなら それでよい──できなければまずい──わけですが、森さんは、それ(=再構成)が可能だと思いますか?
【追記】20041208 14:26
上記は──答えているわけでも反論しているわけでもなく、森さんの問いを 別の問いに変換してみているつもりなのですが──、いかにも下手な議論なので、もうちょっとコンパクトに再定式化してみます:
- 『知の考古学』は──方法論の書ではなく──方法の書である、というテーゼは(どうやって)ディフェンスできるだろうか。
また、ディフェンスできたとして、
- それで何がいえたことになるだろうか。それをいうと何が楽しいのか。
ところで森さんの曰く(@12:54):
フーコー自身の言に即した再構成といふことですと一應、上に蓮實氏によるインタヴューから引用された範圍では、「一つの「方法」」「包括的な方法」「総体的な「方法」」などが「方法論 methodology」 に、「接近手段」「手段を握造」といふのがあの手この手の「方法 methods」(複數形)に、それぞれ比定できるナと思った次第。これをさらに『知の考古學』に遡ってとなると……、そこまで考へてをりません。
私自身は、ここを読んだときに:
もちろんしかるべき対象を浮上させるために手段を握造してはみる。捏造はしてみるのですがこんどは当然のことながら対象の方が手段に限定されてしまう。手段に狂いが生ずれば対象の方も狂ってくる。それを修正しようとしてまた手段を握造する。するとその手段によって姿をみせる対象が自分の求めるものではなかったといった具合に、わたしの足どりは一冊ごとにおぼつかなくよろけているのです。
──なるほどそうでしょうが、しかし──研究ってふつーそーゆーもんでしょ、と思いました。