- 作者: ミシェルフーコー,小林康夫,松浦寿輝,石田英敬,Michel Foucault,蓮實重彦,渡辺守章
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2000/08
- メディア: 単行本
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『知の考古学』は「方法」の書物ではいささかもありません。わたしは、一つの「方法」を持っていてそれをあらゆる分野に適用するといったやり方は致しません。それとは逆に、ある一連の領域を他から孤立させ、それに対して分析なり研究なりを試みようとするその瞬間に接近手段を何とか鍛えあげようとするわけで、その際、ある方法を特権的に絶対化することはなかったはずです。[‥] わたしの真の問題は「真実」と呼ばれるものと「権力」との間に横たわる諸関係の地層を明らかにし、それを露呈させることにあるのです。[‥] しかもその問題に対して[‥]、包括的な方法というものは存在せず、したがってきわめて把握が困難なので、わたしは「盲目の経験主義者」として進んできたというわけです。総体的な「方法」もなく確信的手段もなく、したがって手さぐりで進んでいるといった次第です。まあ、状況としては最低というわけでしょう(笑)。
もちろんしかるべき対象を浮上させるために手段を握造してはみる。捏造はしてみるのですがこんどは当然のことながら対象の方が手段に限定されてしまう。手段に狂いが生ずれば対象の方も狂ってくる。それを修正しようとしてまた手段を握造する。するとその手段によって姿をみせる対象が自分の求めるものではなかったといった具合に、わたしの足どりは一冊ごとにおぼつかなくよろけているのです。[246:p564-565]
額にいれて飾っておきたいほどに素晴らしい──そして私自身はまったくもって共感できる──、ありがたーいお言葉なのですが*1。
たとえばふたつの読み方ができる。
- インプロヴィゼーションで道を切り開き、過去にとらわれずに日々新たに変貌するフーコー先生カコイイ(・∀・)!
- そうはいっても『考古学』(69)〜『秩序』(70)では「方法」だの「理論」だの(「原理」とすら!)言ってたじゃん。しかもわざわざ「学」とか名前までつけちゃって*2。 言い訳にしかきこえませんが? (つーか「いささかも」とか言ってんじゃねぇよ。)
で、これは「対立する読み」ではないわけですな。もちろん。
よろけているなら「わたくし日々よろけておりまして」と言えばいいところを、でもそう言わずに、【「理論や方法が必要だ」と考え・語ってしまった(だけでなく「学」とかタイトルについてる本まで書いちゃった)60年代後半〜70年代初頭のフーコー先生】というのがいたわけなのだった。「じゃ、あれはなんだったのよ?」──という話なのである。
いやべつに「首尾一貫してなくておかしいです」と言いたいわけじゃなくてですね。
昔は、理論とか方法とか学とかいうラベル貼ってモノを考えねばという脅迫にかられてたときもあったけど、結局無駄なのが分かったんで、そゆのは(&そゆこというのは)もうやめましたというあたりが穏当だろうに、とは思うけど、それはまぁいいのです。
そうではなくて、いいたいのは、
- フーコー先生が『考古学』を書かねばならぬと考えたときに、その当時は「理論・方法を作らねば」と つい考えてしまった──勘違いしてしまった──わけだが、そうしたエピソードはさておいてフーコー先生にそう考えさせたそもそものタスクがあっただろうに、
そ い つ は ど こ へ い っ て し ま っ た の だ ?
ということ。 いいかえると、(あとになって*)「理論を・方法を・学を打ち立てねば!」という「その方向が間違っていました**」というからには、最初の問いは、手つかずで残っているのではないか?──ということ。
さらにいいかえると、『知の考古学』という本は、
- 「方法・理論・学を作る」というやり方ではない仕方で、すべて書き換えられねばならない
という課題が残されたままに 著者がそのもとを立ち去ってしまった、そのような著作なのではないか?
──ということ。
** フーコー自身は、「間違っていた」ではなく「俺はそんなことはし(たことが)ない」といっているわけだが。