M氏修論:第1章

夕食。「理解について」の第1章。

私たちが主題として取り上げたものは、それがなんであれ記述されなければならない。なんであれ、それ自身がすでに記述されているのではなければ、私たちの記述装置の一部となることはありえない。

いかなる場合でも、私たちが自殺者というカテゴリーを記述してしまうまでは、すなわち、自殺だと分類できるケースを集める際に用いられた手続が記述されるまでは、そのカテゴリーは、社会学的装置の一部となる可能性すらないのである。

謎めいてもみえるし、トリヴィアルにみえもするハーヴェイ・サックス(「社会学的記述」 (1963))のこの著名なご金言。
こいつを、クリプキ懐疑論がいかなるいみで成り立ち得ないのかを示すことにより──またその延長線上でMCDについての議論を捉え直すことにより──背理法的=消極的な仕方で「理解」させよう、という章。

2章でこの路線をもう少し詰めて──「知覚」について──議論した後、その同じ事柄を3章で──通常「もっとも私的なもの」に属するとみなされているだろう「歯の痛み」を巡る会話の分析*1を通して──今度は積極的なやりかたで示す、というのが論文全体の構成。これはうまいストーリーの作り方ですねぇ。

*1:正確には、“「痛み」は「状態」である”という見方を会話分析を通して解体することにより。