厨の始末。


一眠りして起きてみたところ、ようやく草加くん(OCN)の F5攻撃が止んでいたので、──「草加必死だなw」で済ませてもいいのだが、今後のあれこれを考えて──簡単にコメントをつけておく。(ただし、多々ある意味不明なところは放置の方向で。)

なお、草加くんの返答はまったく期待していないので、書き込みはしないように。(するなら自分のblogにかけ。リンクはってくれりゃ見に 行 っ て や る よ。)


まず、埼玉県の草加くん(OCN)コメント一覧:(http://d.hatena.ne.jp/contractio/20050204#c
【01】

通りすがり 『訓詁学に未来はない』 (2005/02/20 03:32)

【02】

草加煎餅 『数理って妬まれるんだな〜。やっぱ。』(2005/02/21 00:29)

【03】

草加煎餅 『「数理経済学者とか計算言語学者とか人工知能学者とか」は、経済学とか計算言語学とか人工知能学で「自分が食えるか」とかせこいことよりも、単に真理を目指してるだけなので、「社会学があるかどうか」とか「XX学があるかどうか」には関心がないと思うし、そういう人を評価する学問分野はいくらでもある。学問の分野が既得権益になったら、もう進歩ってないのでしょうね。』(2005/02/21 00:38)

【04】

草加煎餅 『馬鹿で結構♪ 削除して勝った気持ちになってください。
一生、数理を頭ごなしに無意味な批判して、すっぱい葡萄の論理で自己弁護していくかわいそうな皆さんよりマシだからw 稲葉さんの言うとおりだよ。まじで。
Natureみればわかるが、脳科学と社会科学を結びつける論文はいますっごくたくさんあるのだ。ここからいろんな知見がでてくることであろう。
野心ある社会学者なら、NatureとScienceのタイトルを眺めることをまじでおすすめする。』(2005/02/21 00:58)

【05】

草加煎餅な蕨 『F5するほど馬鹿じゃないよ。もうこないから安心してね〜。でも、いろんな分野から、「一見すると数理的手法になじまない意味世界の解明に挑む」試みは進むので、「どうせ無理だろ」とかすっぱい武道の論理で一生生きてください。いなばさんっていい人だな。ネタにマジレスで。さよなら〜。』(2005/02/21 01:04)


削除理由は「捨てハンだから」。あらかじめ示してある通り。

ヒネリも無ければ味わいも趣もないので救いようがない。なんかちょっとでも芸があったら、放置しといたのだが。
車輪の再発明」は、灰汁は強すぎるが 不覚にも笑ってしまったのでねw。

その上で。


草加くんのよくないところは、当該エントリーおよびコメント欄で、4人のひとが それぞれかなり異なることを述べているのに、それを、

    • 稲葉大人 v.s 数理を頭ごなしに批判してるひと

と読んでしまったところ。これが誤りの最初の一歩。

ちなみに、「最初の0歩」は、「訓古学」(なるもの)への難癖を──何を血迷ったか、ほかならぬ──私 の ブ ロ グ に書いてしまった、というところ。
私は──訓古「学」どころか──そもそもいささかの「学」にも従事していない*のだよw。あほか君は。
* もうちょっと正確に言いかえると、「学に従事<しているか/いないか>という区別に頓着する立場にいない」。


エントリおよびコメント欄の書き込みのうち、まず、

  • 私はそもそもそういう発言はしていない
    この日のエントリだけでなく、このブログを過去に遡っても、したことはない*

わけだし、そしてまた

草加くんは、車輪の再発明氏の書き込みを、まったく迷い無く「数理を頭ごなしに[‥]批判」したものと読んだようだが、おそらくそれは間違っている。というのも、

  • 車輪の再発明氏の書き込みにおける批判の矛先は、まずは「エントリ欄に挙げてある本」だと読まれるべきものでしょう。
    指示先をもうすこし緩くとってみたとしても、考えられる次の候補は、「数理社会学(の現状)」。いずれにしても
    (確かにそれ自体は「頭ごなしの批判」だといえなくもないが)、これは「数理(的手法)」自体への批判をしているわけではない(あるいは少なくとも、そう読む余地がある)。
と書いてもピンとこないだろうから、違う書き方をすると:
おそらく草加くんは──たとえば──、車輪の再発明氏が「社会学者ではない」というような可能性は、まったく考えても見なかっただろうと思うのだが、この文章はしかし、──たとえば──、自ら数理的手法を使う他分野の研究者──それこそ経済学者とか言語学者とか人工知能学者とかとか──が、数理「社_会_学」本(の或る一冊)についてコメントしている、というものとして読むことが可能なのである。そしてまた、数理的手法を自ら用いる社会学者が、或る一冊の本についてコメントしている、というものである可能性もあるし、そして──草加くんが想定したように──自ら数理的手法はもちいない社会学者のコメントでもありうる。
そういう余地がある以上、草加くんの読み方が「激しい思い込み読み」だ といえてしまうってことまではわかるでしょ?
書き込みした人物が 実際どういう人であったのかは私にはわからないが、仮に実際に、事情が草加くんの想定どうりであったとしても、私のこの主張はくつがえらないこともわかるよね?


結局、エントリおよびコメント欄において、「数理を頭ごなしに[‥]批判してるひと」は、岸どんしかいない。なので、文句があるなら岸どんに集中的に述べていただくべきだったのである。
が、岸どん相手に「訓古学に未来は無い」とかいってみても まったくお門違いもいいところなわけで‥‥。
──という次第で、草加くんのコメントは、たいへんに馬鹿馬鹿しいものだ、ということなのですよ。

* ということも おそらく草加くんはわかっていない。べつにわかっていなくてもいいのだが、しかしそのことは、「あんた、どこいっても誰相手にでも=相手に関係なく=相手おかまいなしに、いっつもおんなじこといってんじゃねーのw?」という疑いを引き起こす、というのはもっともなことでありましょう。
つーか貴様はこの本読め、と。
自由という服従 (光文社新書)

自由という服従 (光文社新書)

そうなってしまうのは、草加くんが、<モデルを数理化するやりかた/それ以外>という、(それでもって社会学を語るにはあまりにもシンプル過ぎて役に立たない)区別しか持っていないからではないだろうか。
そう考えてみると生じてくるのはむしろ、
誰かを「訓古学だ」と非難してみることで(そしてそれだけの所作でもって)得られる利得がある(と考えている馬鹿おめでたいひとが、どうやらこの世の中にはいる)のではないか? そしてそういう類いの厨に、私はいまここで、出会っているのではないだろうか?
──という疑いなのであった。



数理って妬まれるんだな〜。やっぱ。

だの

「自分が食えるか」とかせこいことよりも、単に真理を目指してるだけなので

だの、といった「馬鹿じゃないの??」というか「なかば以上電波系に足突っ込んでるようにみえるんですが?」──と言いたくなる書き込みは、要するに、上記の「最初の一歩目での過ち」の上に書かれてしまっている、というわけなのでした。(そう考えてみれば、全面的に理解可能、とはおよそ言えないところがまたツラいところですが。)

ほかにも、「社会学があるかどうか」と「社会学であるかどうか」はぜんぜんちがうはなしだろってw、とかいろいろありますが、まぁ(以下略)の方向で。


まぁそんなことなので、上記の事情により、草加くんは──いま一度書かせていただくが──、数理の前に、まずは日本語を勉強するべきだろう、と申し上げたい。



* ちなみに、こんなしょうもないことを書いてもほんとに仕方がないと思うのだが
しかし、世の中には、こういうふうに書いた方が 妙 に 納 得 できたりする人もいたりするので書いてみるのだが、
私は『理論と方法』を 個人で=自費で 予約定期購読している、おそらくは おそろしく数少ないであろう人の一人なのである。 で、数理社会学会の刊行物も──出版社にいただいたもの以外は──、たいがい普通に金払って購入しているのだった。
べつに、毎号丹念に読んでいるわけでは(まったく)ない。それは、GSR掲載論文を全部読むわけではない、とか、週刊少年ジャンプを全部読むわけではない(最近は「テニスの王子様」しか読まない)、とかいうのと同じ仕方で、そうである。おおむねざっくりと、「へーこういうの研究してるひとがいるんですかー」とか「へーこういう研究ができるんですかー」とか「へー最近こういうのはやってんですかー」とか、と斜めによんでいるだけではあるのだが、ただまぁ、
「数理を頭ごなしに[‥]批判してるひと」なら、わざわざ定期購読はしないわなw。──というほどの話
ですが何か?


社会学雲散霧消への水先案内人」という言葉の含意については、もうちょっと敷衍してみた方がよい気はしているが、まぁ厨相手に話してもしかたないし、またの機会に。

ちなみにこの話は、上述の、<モデルを数理化するやりかた/それ以外>という区別にかかわっている。そして、その区別の「それ以外」のところに「訓古学」が収まってしまうのは、(まずは草加くんが厨だから、なのだが、それに加えて)、数理さん以外の社会学あれこれの事情も大きく預かっているだろう。
特に数理さんがらみの困った点は、一方で 数理さんが<モデルを数理化するやりかた/モデルを数理化しないやりかた>という区別しかもっておらず、他方で しばしば、数理さんじゃない側のほうも、その区別自体は共有してしまう為に、議論が<数学を使うか/使わないか>というつまらないところに焦点化されてしまうことにある。
じっさいにそんなことを大声で語る人はめったにはいないが(ただし2chの中の人を除く)。
しかし社会学の重要な争点が、そんなところにあるわけがないw。
たとえばそこに出てこない区別として、私としてはまっさきに、<モデルをつくる/つくらない>という区別をあげたくなるのだが。
語るとすればその点について、である。【以上俺様向けメモ。】

‥‥と書いたけど失敗したなぁ。この書き方だと誰も納得しない(誤解を生むだけ)ですな。書かなきゃよかった。ま、出直します。


とりあえずこのエントリは、

稲 葉 さ ん の 中 の 人 も た い へ ん だ な。

──ということでまとめとしておきたい。