涜書:石井「生殖の文法」&前田(投稿中)

昼食。

  • 石井幸夫(2004)、「生殖の文法:ある生殖意識変革運動の言説編成について」(著者完全版)in 『市民社会と批判的公共性』
  • 前田泰樹(2005:投稿中)



前者はこれ↓に掲載されたものの「著者完全版」。
糞*のありえないようなタイトルの本でも すごい論文が載っていることがあるからヨノナカオソロシイ、という事例の一つ。

* 編者が3人も揃ってて大先生を止められなかったのか?
ともおもうが、まぁしかし、それでこその大先生なのだろう(か)。 まこと、社会は複雑であり、人生はたいへんである。まったくひとごとながら。

市民社会と批判的公共性

市民社会と批判的公共性

エスノメソドロジーには歴史が扱えない」という俗耳に入りやすい迷信社会学業界的に比較的流布した誤解があるが、この迷信誤解がはびこる理由は──我惟うに──おおまかにいって3つはある。ひとつは、実際に、それがある程度もっともらしく聞こえるようなEM者特有の物言いがあること。もうひとつは、EM者の営業(あるいは喧嘩)の不味さ・下手さ。そして、三つ目がおそらく、実際に「歴史的なもの」を扱ってみせた論考が多くはないこと。‥‥といったところ。(以上、俺調べ。)
「EMには歴史が扱えない」という命題は 偽である。が、それは──「EMにだって歴史は扱える」から ではなくて──、そもそも考えるべき事柄は 歴史を<扱えるか/扱えないか>というようなところにあるわけではない

あるいはそういう議論が どうやって成り立ちうるのかということ自体が すでにそもそも謎である、というところにある

からだ、‥‥というのが現在ただいまの私の見通し。
で、石井論考は──ある解明が成功をおさめているから、ということよりもむしろ──、「歴史的なもの」を扱う ということが どれほどの問題をはらんだことなのかを読者に垣間見せてくれる、という点ですごーいとおもうのだった。ともかく考えるべきことは戦慄するほどにたくさんあるのであるよ(誰かが)。‥‥ということがわかる。

そして/しかし──残念ながら──、「EMには歴史が扱えない」と述べてしまえる人には、──ひょっとすると──、その問題の所在を伝える事自体が難しいかもしれないともおもうのだった。 がんばれ。(>誰か)



後者。著者ここ数年の総決算(?)か(?)。
ここ数ヶ月をかけて、学部時代(!) からの論考を追いかけて来た身としては、──「哲学的」色彩の強い論考から いくつかの「調査もの」を経て いまいちど出発点に戻って来たところまで見届けた、という趣きがあり──、ひとごとの様に感慨深い。