はてなアンスコム祭り:ポール・リクール編

朝食前半。

タイトルはイメージです。

他者のような自己自身 (叢書・ウニベルシタス)

他者のような自己自身 (叢書・ウニベルシタス)

第3研究「行為者なき行動の意味論」再訪。
まだちょっと自信の無いところはあるけど、議論はおおむねフォローできたと思う。

が、そうしてみると*1、そこで生じてくるのは「ついていけん」という思いであった。


第3研究4節における大先生の主張は、煎じ詰めると:

    • 「出来事」は非人称的なものである。
      だから、「出来事の存在論」には 「誰が?」の問いに答えられない。

ということになるらしい。

「んなあほな!?」と思ったので数度読み直したが、どうやら ほんとに本気でそう主張していらっしゃるようであります。


なるほど、“「出来事」は非人称的なもの”であることが 匿名的(あるいは第三者的)な分析・記述の可能性を──まったくベタな仕方で──開く、ということはあるかもしれない。 が、そこから大先生が、「このことは、出来事の存在論 とは 別の存在論 が必要だ、ということを意味する」(大意)とかとかいう方向へと進んでいくとき、そこで先生は 大いなる飛躍 をしてしまっているようにみえる。 というのも、そんなふうに考えてしまうのは、たんに大先生自身が、そこから開ける別の可能性*に思い至らないということにもとづいてのことだから。

私は、「別の途」の例を 少なくともひとつ*挙げることができ(、それによって大先生の議論の飛躍を示すことができ)る。
文の分析(リクール先生の言い換えに従えば、論理文法の分析)をとおして──つまり、「我々が、人称代名詞(やメンバーシップカテゴリー)をどんなふうに用いているか」を記述することをとおして──そこでいかなる帰責が・どのように 生じているかを解明する という方向から、「誰が?」の問いにアクセスする、という途がそれである。
そして/まさに──たとえば──ウィトゲンシュタインエスノメソドロジストは この途を行く。

そんなわけで大先生は、──「他のやりかた」を考えてみるかわりに──「他の存在論」の構想へと至る(というよりは、「最初から隠し持っていたものを、ここで出す」という表現のほうがおそらく正しい)。 そして、「文の分析」を徹底することのかわりに、彼は伝統的思考財を──アリストテレス『ニコ倫』を──参照するほうを*選ぶ[第4研究]わけである。 ・・・それが「よい結果」につながるとよいのだが。

* しかも、帰責について問うことは、そのまま「倫理」的な問題である、という(まさにそれでこそ大先生、それでこその哲学者*というべき)偏見とともに、彼は そうする。 先生のこの首尾一貫した立派さは、私に感銘を与えずにはおかない(或る意味)。
このことが──大先生の顰に効った言い方をするなら──排除するのは、「帰責について、さしあたってまずは「もっぱら倫理的」なものとはみなさずに扱うやり方こそが、
いいかえると、帰責について、「倫理的」な捉え方を優位におかないやり方こそが、
「倫理的」な事柄について(も) 適切に扱うために 必要である筈だ」、という洞察である。そしてまさに、本書全体を通じて──パラパラした限りでは──、この洞察が大先生の視野に入ってこないようである、というのも当然かもしれない。
* すべて(あるいは多く)の哲学者のみなさんが、この偏見をお持ちであるとは、私は主張しない。(個人的な見聞の範囲では、少なくない方々がお持ちである様に見受けられるが、私の見聞自体が著しく狭いので これはあてにならない。また、そうした偏見をお持ちでない哲学者の方も──少ないが──いらっしゃった、ということは 付け加えておく。)




要再考リスト(>俺)

  1. 大先生曰く:
    「意図に関するアンスコムの3分類のうち どれを優位に置くかが、
    * 言い換えると、それらのうちのどれから分析を開始するか が
    アンスコム〜デイヴィッドソンと現象学では異なり、そこから扱う事柄の違いや流儀の違いもでてくるのだ」(大意)、と。
  2. 大先生のこだわる 同一性の二重性〈idem / ipse〉を区別するのが セルフリファレンスであることは見逃せない。リクール大先生の問いが、“「出来事の存在論」は、〈idem / ipse〉区別を──つまりセルフリファレンスを──どのように扱えるのか”と換言でき・そこに焦点化できるものであるなら、
    おそらくできるのだが、
    少なくともこの問い自体は、ルーマニ屋にとっても無関係なものではない。

*1:© サトベン大先生