朝食前半。
タイトルはイメージです。

- 作者: ポールリクール,Paul Ricoeur,久米博
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
- 発売日: 1996/06
- メディア: 単行本
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まだちょっと自信の無いところはあるけど、議論はおおむねフォローできたと思う。
が、そうしてみると*1、そこで生じてくるのは「ついていけん」という思いであった。
第3研究4節における大先生の主張は、煎じ詰めると:
-
- 「出来事」は非人称的なものである。
だから、「出来事の存在論」には 「誰が?」の問いに答えられない。
- 「出来事」は非人称的なものである。
ということになるらしい。
「んなあほな!?」と思ったので数度読み直したが、どうやら ほんとに本気でそう主張していらっしゃるようであります。
なるほど、“「出来事」は非人称的なもの”であることが 匿名的(あるいは第三者的)な分析・記述の可能性を──まったくベタな仕方で──開く、ということはあるかもしれない。 が、そこから大先生が、「このことは、出来事の存在論 とは 別の存在論 が必要だ、ということを意味する」
(大意)とかとかいう方向へと進んでいくとき、そこで先生は 大いなる飛躍 をしてしまっているようにみえる。 というのも、そんなふうに考えてしまうのは、たんに大先生自身が、そこから開ける別の可能性*に思い至らないということにもとづいてのことだから。
私は、「別の途」の例を 少なくともひとつ*挙げることができ(、それによって大先生の議論の飛躍を示すことができ)る。
文の分析(リクール先生の言い換えに従えば、論理文法の分析)をとおして──つまり、「我々が、人称代名詞(やメンバーシップカテゴリー)をどんなふうに用いているか」を記述することをとおして──そこでいかなる帰責が・どのように 生じているかを解明する という方向から、「誰が?」の問いにアクセスする、という途がそれである。
文の分析(リクール先生の言い換えに従えば、論理文法の分析)をとおして──つまり、「我々が、人称代名詞(やメンバーシップカテゴリー)をどんなふうに用いているか」を記述することをとおして──そこでいかなる帰責が・どのように 生じているかを解明する という方向から、「誰が?」の問いにアクセスする、という途がそれである。
そして/まさに──たとえば──ウィトゲンシュタイン派エスノメソドロジストは この途を行く。
そんなわけで大先生は、──「他のやりかた」を考えてみるかわりに──「他の存在論」の構想へと至る(というよりは、「最初から隠し持っていたものを、ここで出す」という表現のほうがおそらく正しい)。 そして、「文の分析」を徹底することのかわりに、彼は伝統的思考財を──アリストテレス『ニコ倫』を──参照するほうを*選ぶ[第4研究]わけである。 ・・・それが「よい結果」につながるとよいのだが。
* しかも、帰責について問うことは、そのまま「倫理」的な問題である、という(まさにそれでこそ大先生、それでこその哲学者*というべき)偏見とともに、彼は そうする。 先生のこの首尾一貫した立派さは、私に感銘を与えずにはおかない(或る意味)。
このことが──大先生の顰に効った言い方をするなら──排除するのは、「帰責について、さしあたってまずは「もっぱら倫理的」なものとはみなさずに扱うやり方こそが、
* すべて(あるいは多く)の哲学者のみなさんが、この偏見をお持ちであるとは、私は主張しない。(個人的な見聞の範囲では、少なくない方々がお持ちである様に見受けられるが、私の見聞自体が著しく狭いので これはあてにならない。また、そうした偏見をお持ちでない哲学者の方も──少ないが──いらっしゃった、ということは 付け加えておく。)いいかえると、帰責について、「倫理的」な捉え方を優位におかないやり方こそが、
「倫理的」な事柄について(も) 適切に扱うために 必要である筈だ」、という洞察である。そしてまさに、本書全体を通じて──パラパラした限りでは──、この洞察が大先生の視野に入ってこないようである、というのも当然かもしれない。要再考リスト(>俺)
- 大先生曰く:
「意図に関するアンスコムの3分類のうち どれを優位に置くかが、
* 言い換えると、それらのうちのどれから分析を開始するか がアンスコム〜デイヴィッドソンと現象学では異なり、そこから扱う事柄の違いや流儀の違いもでてくるのだ」
(大意)、と。 - 大先生のこだわる 同一性の二重性〈idem / ipse〉を区別するのが セルフリファレンスであることは見逃せない。リクール大先生の問いが、
“「出来事の存在論」は、〈idem / ipse〉区別を──つまりセルフリファレンスを──どのように扱えるのか”
と換言でき・そこに焦点化できるものであるなら、おそらくできるのだが、少なくともこの問い自体は、ルーマニ屋にとっても無関係なものではない。
*1:© サトベン大先生