涜書:デリダ/スティグレール『テレビのエコーグラフィ』

夕食。読了。

デリダの「偶然性(アレア)」は ひと の形をしている。
だ_か_ら、「メシア的なもの」をめぐる問は、倫理的なしかたで問われることになる。 しかも「そうなってしまわざるをえない」という形で、そうなってしまう。

これは哲学の能力だろうか。(それとも 無-能力 なのだろうか。)

「予期の地平」を超えるとすら謂われるこの「偶然性」は、しかし、ひと のかたちをすることだけはやめない。
この地点で、デリダはおそらく、倫理学という伝統の呪縛を振りほどかねばならない、とは考えてはおらず、まさにそういう点で、彼は見事なまでに、れっきとした哲学者──見事に哲学主義的な哲学者──だった。


「偶然性」を倫理学の枠内で問うのをやめさえすれば、もっと別の──ここで私は ほとんど「機能的に等価な」と いいたくなっているわけだが──語り方が可能だろうに。

といっても、私が具体的に思いつくオルタナティヴは──たったひとつだけ──「進化論」という可能性、しかないが。 しかし ほかにもまだあるかもしれない。


知覚の言語―センスとセンシビリア (双書プロブレーマタ 4)

知覚の言語―センスとセンシビリア (双書プロブレーマタ 4)

ぱらぱらする。
オースティンちょーカコ(・∀・)イイ!