ニクラス・ルーマン「真理とイデオロギー」

昼食。http://socinfo.g.hatena.ne.jp/contractio/20060320

  • Niklas Luhmann, "Wahrheit und Ideologie -- Vorschläge zur Wiederaufnahme der Diskussion,"
    in Der Staat 1 (1962), pp. 431-448 → Soziologische Aufklärung 1: Aufsätze zur Theorie sozialer Systeme, Westdeutscher Verlag, 1970, pp. 54-65, isbn:3531141767
    ニクラス・ルーマン(1962)、「真理とイデオロギー──議論の再開のための提案」


反時代的論考。
イデオロギーの終焉」が語られていたまさにそのときに、「これからこそがイデオロギーの時代だ」と煽るルーマン先生。
「なるほど、対抗者の 口実・言い訳を 虚偽として〈批判〉するたぐいの【イデオロギー批判】の重要性は低下していくだろう。そうした〈批判〉は、イデオロギーというものを 無い方がよいし・また無しでも済むもの であるかのように扱っているが、正当性調達の必要性は むしろ 今後ますます増加していく筈であり、そうであるからには(上記の様な〈批判〉とは別の意味での、つまり)(正当化機能に即した*)イデオロギーの吟味(といういみでの批判)】の重要性・必要性のほうも増していくだろう」(大意)、と。

* 先生曰く、「イデオロギー的価値概念の機能は、行為結果を別様可能性との関係の中で説得的に秩序化することだ」と。



 これまでイデオロギーはつねに、存在論形而上学に基づく伝統的な真理観念を基準として倫理的、認知的に評価されてきた。この観点からは、イデオロギーというのは疑わしいもの、文化の危機を表すもの、人生の真の中身や信じるに足る意味が失われたことの徴候だと見えてしまう。本稿の考察は、このイデオロギーと真理の間の不均衡は、イデオロギー的思考が不十分であることを示しているというよりは、むしろ存在論的前提に基づく伝統的な形而上学的真理概念が時代遅れになっていることを示しているのではないか、という疑問を導いてきた。イデオロギーは日一日と活性化しているように見える。イデオロギーの時代が終わったなどとはとてもいえないのである。正しくは、イデオロギー的な熱狂が(不必要になったために)弱まり、その代わりにイデオロギーによる行為の方向づけに、ルーティン的な手入れが必要になったということにすぎない。イデオロギーが十全に展開するためにこそ、イデオロギーの機能についてきちんと知っておく必要がある。そのためには機能分析の技術を身につけることが不可欠である。[31段落目。ホープ訳]

ちゃんと啓蒙家口調で話していて おかしい。


ところで「ルーマンの謂う〈機能〉って現象学とどう関係あんの?」問題ですが。

この論文では、〈機能〉が〈射映〉と重ねて論じられてます。こうやってひとつひとつ拾い集めていくと それなりの見通しを筋道だてて示すのはそんなに難しくなさそうだけど。でも、これはどちらかというと哲学科出身とかのひとに「余技」としてやっていただく方がいいことのような気も。
あるいは卒論*とかのネタにどうですか。>誰か

* ルーマンが参照してる現象学の文献て、だいたい邦訳が出てるし。