夕食。再訪。
- 作者: マイケルダメット,Michael Dummett,野本和幸
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 1998/12/01
- メディア: 単行本
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第4章 心のなかから思想を追放すること
■ウィトゲンシュタインのフレーゲ批判(についてのダメット説) ──これどうよ???
- ウィトゲンシュタインは事実上、対象についての思想をもつことができなければ、そして特に、対象を再度同じものとして再認することができなければ、その対象が存在すると想定し得ない、と仮定していることになる。
- 彼は、あらゆる思想は言語で表現されるとは仮定していないが、あらゆるものは言語で表現可能であるとは仮定している。[p.29-30]
再考のこと。(>誰か)
第5章 ブレンターノの遺産
- フッサールは[『論研』(1900-1)で]、すべての心的作用についてその 質量matter と 性質quality とを区別しており、その上で、性質に関して互いに異なる諸作用が共通の質量を持つこともありうるとみなした。このとき、
* たとえばある主張が、それと同じ内容(意義)を持つ質問から区別されるのは、こうした力によってである。(‥)
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第6章 意味についてのフッサールの見解
意味付与という神話について
■前提
フッサールは、一般に有意味な表現が指示(reference)を持つのは当然だと考えた(‥)。もちろん発話それ自体が心的作用なのではない。が、フッサールの説明では、発話がそれの意味を持つのは、ある種の心的作用──彼が意味付与作用と呼ぶもの──によって生気づけられることによる。[p.59]
■留保
フッサールにとって、実のところ、この意味付与作用は、発話という物理的な作用の背後にあって 発話に意味を付与する、という別個の心的作用──こうした考えをウィトゲンシュタインは激しく非難したのだが[『探究』I-329, I-339]──なのではない。むしろ、語を一定の意味を持つものとして発話するというまさに単一の作用であり、それは二つの側面ないし構成要素を持つ。そのひとつは物理的側面、もうひとつは心的側面である。(‥) [p.59]
単一の複合的な作用のみが存在するというフッサールの考えは、ウィトゲンシュタインが攻撃していた考え*よりも好ましいことは明らかである。[しかし二人が同じ考えを持っていたわけではない]
- ウィトゲンシュタインにとって、話し手の語に、その語が持つ意味を付与するのは、(‥)コンテクストなのであり、それは当該の文の属する言語に関する話し手の知識を含むものである。つまり、彼は当の語を発話しているだけなのである。
- 対照的に、フッサールにとっては(‥)心的作用が話し手の心の内に生起している。ただしそれは独立した作用ではなく、物理的な部分と心的な部分からなる複合的な作用の不可欠の部分なのである。[p.60]
* 文を発話する物理的作用は それに意味を結びつける内的作用を伴っている、という考え
門脇見解と対照のこと:http://d.hatena.ne.jp/contractio/20050301/1109659272
■結論
[p.68-70]