アロン『主要潮流』

夜食。こんなもの──とかいうたらアレですが──を読んでいる場合ではない。もうやめよう。

いつか『社会的行為の構造』*と並べて比較検討すること。>自分
* アロンはこの著作で、──おそらく今日では、信じている人のほうが少ない見解かもしれないが──パーソンズの収斂学史観の破壊を試みている。

社会学的思考の流れ 2 (叢書・ウニベルシタス)

社会学的思考の流れ 2 (叢書・ウニベルシタス)


すでにいろんなひとに指摘されておることですが...。

 社会的事実を 拘束 によって定義することの [第一の曖昧さは、「拘束」という語自体が曖昧だ、ということであるが、] 第二の曖昧さは、次の問題に関係している。拘束とはいったい社会現象の本質なのか、それともその認識の助けとなるたんなる外的特徴にすぎないのか。デュルケム自身によれば、正しいのは後者である。拘束がそのものとして社会的諸事実の本質をなしているとは主張していない。かれは、たんに社会的事実が認識可能であるように、外部的特徴としてこれを認めるにすぎない。

しかし時折、外部的特徴と本質規定の混同がみられるのである。社会的事実を拘束によって定義する事がはたして妥当であるか否かについては、果てしない議論が繰り返されてきた。私の個人的な結論は、拘束を広い意味に取り、その特質を容易に関する特徴 というふうに解するならば、この理解はより承認しうるものとはなるが、おそらくより面白みに欠けるものとなろう、ということである。

物および拘束という語についての論争は、哲学者としてのデュルケム自身が概念論者であるだけに、いっそう激烈の度をました。かれは属と種の区別を、実在そのものの中に描きこまれているものとし、基本的なものとみなす傾向をもっている。かれの社会学理論においても、定義と分類の問題は第一の重要性をおびている。
 [本講義でもとりあげた 代表的な]三つの著作のいずれにおいても、デュルケムは、問題の現象を定義する事から出発している。現象の定義は、事実の範疇を区別して取り出す事であるから、かれにとって、重要この上もない。デュルケムは、いったん事物の一範疇が規定されれば、それに対する説明──しかも単一の説明──を見いだす事は可能であろう、とつねに考えがちである

その抽象的な公式は、ある所与の結果はつねに同一の結果から生じてくる、というものである。たとえば、自殺にいくつかの原因があるとすれば、それは自殺にいくつあの類型があるからだ、ということになる。

 定義のための手続の基準は以下のとおりである。「探究の対象としては、もっぱら、すべてに共通するある外部的特徴によってあらかじめ定義されている現象群をとりあげ、同一の探究のなかでは、この定義に対応するそれらの現象全てを包括すること。」
 [‥]
 この方法で問題的なものはなにか。それは次の点にある。[‥] もしもこの定義を確定して後 そこにいわれている因果律の原理を適用し、この範疇に属する全ての事実は、一個の それも唯一の定まった原因をもっていると宣するならば、そうと自覚せずに、われわれは外在的な定義が内在的な定義に帰着することを含意することになるし、当の範疇に分類された事実のいっさいが同一の原因をもつのだと仮定することになろう。まさしくデュルケムは、その宗教論のなかで、聖による宗教の定義から横滑りし、トーテミズムと救済宗教の間には根本的な相違はないという考え方に達し、あらゆる宗教は社会の崇拝である、という命題をたてることに終わっている
 この方法の危険は二重に存在する。すなわち、知らず知らずのうちに外在的定義を内在的定義によって置き換えてしまうこと。一つの範疇のなかに分類された事実のすべては必然的に同一の原因をもっていると憶断すること、がそれである。

宗教についてみれば、これら二つの留保が重要であることはただちにあきらかとなる。トーテム宗教においては、あるいは信者たちはそれと意識せずに社会を崇拝しているかもしれない。しかしだからといって、宗教信仰のこの内在的・本質的な意味が、救済宗教についても変わりがない、ということにはならない。デュルケムの概念論的哲学は、同じ範疇に分類された 外在的な特徴によって定義された様々な事実のあいだには主としての同一性が在る、ということを含意している。だがこの同一性たるや、どう考えても自明のものではない。

[p.85-87]

デュルケームのこの態度が、同時代のひとたちと比べてもどれほど異様なものであったか、ということについてはハッキング『偶然を飼いならす―統計学と第二次科学革命』も参照のこと。>誰か

問題は「一原因一結果」という表象のみにあるのではなくて、それが類-種の存在論と結びついている──結びつかざるをえないし、それに支えられている──ということなのであります。(cf.『系統樹思考の世界 (講談社現代新書)』)