ようやく出ました・・・。12/5 に現代倫理学研究会で合評会があるとのこと。
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メモ
第一章「概念」
- 30 方針表明: 「よりよい概念的思考の探究は〈ある個別的な対象についての思考のあり方を当の思考自身が吟味する〉という反省的構造に依拠して進められる」もので、〈よい思考/よくない思考〉を弁別する基準を求めるものではない
これはこれでごもっともであるが──〈個別的なものの理解〉なんてお題目をアドルノにだけは言われたくないよな、というのはさておくとしても──、もしアドルノが特定の音楽作品についてはそれができたのだ、と言われるなら、むしろ「なんでお前それしか出来ねぇの?」って言いたくはなるよね。
- 69 「アドルノはここで、人間の実践から切り離された自己充足的な体系として概念を理解する考え方を拒絶し、概念を、それが形成・使用・改定されほかの概念と結びつく社会的・歴史的・実践的文脈のなかで理解する考え方を提示している。」
ここからどこをどうすると〈概念を欠いたものを捉える〉などという目標が導けるんかね。
80の〈概念|商品|酒〉の対比は全面的に混乱しているように思われる。ここはあとで再度検討すること(宿題)
- 81 ここでは「概念が形成・使用される文脈」のことを〈非概念的なもの〉と呼び始めたが、この使い方はここが初出だろうか。
- 92 音楽形式論における言葉遣いのお約束:
・形式:実質的に理解された音楽上の概念
・図式:形式的に理解された音楽上の概念 - このお約束に従うと、「形式的に理解された音楽上の概念は形式ではない」ということになる(泣
- 92 このお約束の結果、大変なことになってしまった。
「「ソナタ」という概念を実質的に…理解することによって、「図式」としてのソナタを適用できないヴェーベルンの作品に「形式」としてのソナタ概念を適用している」
「そしてそれによって、ヴェーベルンの作品をほかのさまざまな作品のネットワークのなかに新たに位置づけている」
「こうした対象の来歴・ネットワークは、形式的に理解された概念の適用によっては取り逃がされることになる。」
読者にこんな無駄な負担かける必要あった?
- 念のため確認してみた:
- 〈実質的/形式的〉が明確に定式化されているのは69。
- その根拠になっているアドルノからの引用文に「形式(的)」という表現は含まれていない。
- 「形式」という表現を使っているのはデンマリングで(66)、著者もそれを踏襲している。
- ということで、アドルノ自身ではなく二次文献の言葉遣いに従った結果なので、これは著者の責任だろうな。
- ◆「新音楽における形式」(1966)について。
- Anton Webern: Six Bagatelles for String Quartet, Op. 9 (1911-13)
https://www.youtube.com/watch?v=yXE8gPrkRkQ - ◆「伝統」『不協和音』(1960)
- 100 概念の実質的な理解(再:
・ほかにどのような概念を理解すれば その概念の内容をよりよく把握できるか
・その概念の内容をよりよく把握することによって ほかにどのような概念をよりよく把握できるか - ◆『ベルク』(1968)
〈個別的なものの理解〉などということをわざわざ言うことに意味があるのは、「特定の音楽作品」のように、まさに個別的に評価するのが当然であると誰もが認めるように制度化された対象を扱う時ではないのでは?──という根本的な疑問が湧いてくるところです。
- 128 「付置」概念は〈創出/発見〉の二側面を持つ。
これ現象学におかる「構成」概念を想わせるね。
- 130 テーゼ: 概念的思考の自己反省は、同時に対象に対する感受性の発揮でもある。
第二章 叙述
- 137 「概念的付置」再訪
・対象の来歴を辿るなかで形成される、実質的に理解された概念のネットワーク
著者は、「〈実質的に理解された概念のネットワーク〉を獲得するやり方にはどんなものがあるのか(「来歴を辿る」という一種類だけなのか)」という問いを立てていないように思われる。その問いを立てていないために、「実質的に理解された概念のネットワークを獲得する」という目標と「それをどうやって獲得するか」というやり方に関する議論が あまり分節化できていない、という結果が生じているのではないだろうか。
- ◆「弁証法入門」講義
- 142
・表象
・喚起
・密着 - 159 微視的思考:認識の対象が私に対して提示される際の全体としての在り方が 様々な要素に分解されること
アドルノ話法ですね。 - 160 再掲
・認識の対象が私に対して提示される際の全体としての在り方が様々な要素に分解されること
・この全体が自分自身を部分から成立するものとして提示すること
アドルノ のデカルト読解、これ対象に密着してないあかんやつでは。
著者には、「我々はいつ事柄に密着しなければならないのか」という問いも併せて立てていただきたい。我々はいつ対象に密着しなくてよいのだろうか。
「音楽作品を分析するときはね・・・」──という話に見えちゃうんだよなぁ。
- 172 「分析や分割は、多くのばあい、自分にとってなじみのないものやよくわからないものを自分にも理解できる要素にまで分解することだ、と考えられている。」
- ◆「音楽分析の問題によせて」(1969)
1969年の講演が1982年に文字起こしされて英訳されてるのに、それをまともな検討対象とする人がこれまでいなかった(注93)という事情が、アドルの研究の置かれた苦境と人材不足を物語っておりますね。
- 180 Wahrheitsgehalt
- 注97 「アドルノはこの「真理内実」という概念をベンヤミンの論文「ゲーテの『親和力』から引き継いでいる。」
- ベンヤミン先生曰く「批評は芸術作品の真理内実を求め、注釈は芸術作品の事象内容を求める」
- 182 「まとめよう。「作品が分析を必要とする」というテーゼには二つのアイディアが含まれている。
・第一に、音楽作品には分析によって展開されるべき来歴が折りたたまれており、その来歴の内容によって作品は孤立したあり方ではなくそれが置かれたネットワークとの豊かな関係を提示する。
・第二に、この来歴の展開のために、音楽は聴取者に分析という特定の概念的分節化を要求する。」
このへんだとまだギリギリ「来歴」という表現が意味を持つけど、もう一歩進むとどうなるか。音楽作品についてこれが意味を持つのは、ここで考えられているのが基本的には、〈既存の〉作品(ならびにそれらがまとっている様式など)の間のネットワークだからだよねぇ。
- 205 「来歴」が「社会的文脈」と併記されている。本書で「来歴」の一語で指示されているものはそのようにできる事柄なのかという問題が、やはり出てくる予感がするね。
- と思ったらすぐに来歴に回収されたぜ(206)。
「弁証法的思考は、当の個人がいかにしてその願望や考えをもつようになったか、いかにしてその願望や考えを自分自身のものと捉えるようになったか、という本人のこれまでの来歴にそくした考察に徹し、その結果として個別的なものと思われた感覚や欲求が個別的ではないようなあり方で見えてくる、というやり方を取るのである。」
アドルノ先生、コロンビアでそんな仕事の仕方してなかったじゃん、という点についてはさておくとしても、これ「概念的な検討」じゃないよね? むしろここには「来歴じゃないものを来歴としてしか処理できてないことないですか」とか、「〈来歴を調べる〉といういかにも人文くん的な作法をアドルノに押し付けてしまってないですか」とかいった疑問が成立する余地がありそうではないですか。
私の疑問は──もう一つメタなレベルに引き上げると──、アドルノたちは、講談哲学然とした仕事をやろうとは思えなくなって、試行錯誤しながら社会学へと足を伸ばして社会哲学をやり始めた世代に属するわけだけど、守さんのこの解釈は、その試行錯誤の営みを救えてるんだろうか(むしろ下手すると人文くんたちの世界に引き戻してないだろうか)──というものであり得ますね。
第三章 自由
詳細目次
序 論
第一章 概念
第二章 叙述
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第三章 自由
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