(2018.11.24)北田暁大×酒井泰斗「社会学への帰還――構築主義から社会哲学を経由して」

北田暁大さんの論文集『社会制作の方法: 社会は社会を創る、でもいかにして? (けいそうブックス)』の刊行を記念して下北沢の本屋B&Bにて対談イベントを行います。
こちらにイベント紹介ページを開設しました。

  • 日時: 2018年11月24日(土) 15:00-17:00
  • 会場: 下北沢 本屋B&B (地図)
  • 申込: 本屋B&B

 2018年11月上旬に北田暁大さんの新刊『社会制作の方法――社会は社会を創る、でもいかにして?』(勁草書房)が刊行されます。
 この本は、ドナルド・デイヴィドソンエリザベス・アンスコム、アルフレッド・シュッツの行為理論、歴史理論、言説分析・概念分析・エスノメソドロジールーマンのシステム理論といった諸々に「自分なりの解答」を得るまでの、北田さんの思考の軌跡を、「社会を創る」という観点から再編集したものです。 社会構築主義から出発し、これらの哲学や社会理論等を経由し、また社会学に戻ってくるまでの軌跡をまとめたのが本書だと、まとめることもできそうです。
 今回の刊行記念イベントでは、会社員でありながらルーマンの社会理論やエスノメソドロジーなど、社会学の議論に詳しい酒井泰斗さんをゲストにお招きします。社会構築主義をめぐる社会学の議論を踏まえ、どのような「社会学」が可能なのか、可能になるのかをめぐって、お話できればと考えています。

いただきもの:北田暁大(2018)『社会制作の方法』

出版記念のイベントやりましょうということでゲラ読みの刑に処せられました。

イベントは10月開催予定ですが、北田先生がちっとも開催日を決めてくれません。
当然のように刊行が11月にずれ込みました。イベントは11/24(土)15:00-17:00、下北沢にて開催します。
  • 序 「社会学の根本問題」と社会問題の社会学──what と how のあいだ

第I部 過去制作の方法──出来事の構築

第II部 倫理制作の方法

  • 第5章 行為の責任を創り上げる──Schutz動機論から Luhmannの道徳理論への展開
  • 第6章 「自由な人格」の制作方法──ウェーバーによる定言命法仮言命法
  • 第7章 人間本性の構築主義文化左翼のプロジェクト──ローティとともにローティに抗う

第III部 社会制作の方法──ルーマンをめぐって

  • 第8章 他者論のルーマン
  • 第9章 社会の討議──社会的装置としての熟議
  • 第10章 社会の人権──基本的人権とは社会システムにとってなにか
  • あとがき

いただきもの:岸・北田・筒井・稲葉(2018)『社会学はどこから来てどこへ行くのか』

10月15日追記。
上掲出版記念イベント、『どこどこ』も読まないと準備できないのでは と申し上げたところ、こちらもゲラをいただいて(自分で仕事を増やして)しまいました(死
どうもありがとうございます。

社会学はどこから来てどこへ行くのか

社会学はどこから来てどこへ行くのか

  • はじめに
  • 第1章 社会学はどこから来てどこへ行くのか [岸政彦・北田暁大
  • 第2章 社会学は何に悩み,何を伝えたいのか [岸政彦・北田暁大
  • 第3章 社会学は何をすべきで,何ができるのか [岸政彦・北田暁大
  • 第4章 質的調査と量的調査は対話可能か [岸政彦・筒井淳也]
  • 第5章 フェイクニュースに騙されないための《社会調査》のすすめ [岸政彦・筒井淳也 進行:荻上チキ]
  • 第6章 社会学の仕事の実際 [北田暁大・筒井淳也 ゲスト:前田泰樹]
  • 第7章 データの正しさと〈相場感〉 [岸政彦・筒井淳也]
  • 第8章 再び,社会学はどこから来てどこへ行くのか [岸政彦・北田暁大稲葉振一郎

いただきもの:岸政彦(2018)『マンゴーと手榴弾』

自分でも購入したのですが。
第二刷をいただきました。どうもありがとうございます。

  • はじめに
  • マンゴーと手榴弾──語りが生まれる瞬間の長さ 〔『現代思想』44(1)、2016〕
  • 鉤括弧を外すこと──ポスト構築主義社会学の方法 〔『現代思想』43(11)、2015〕
  • 海の小麦粉──語りにおける複数の時間 〔『現代思想』45(6)、2017〕
  • プリンとクワガタ──実在への回路としてのディテール 〔『現代思想』45(20)、2017〕
  • 沖縄の語り方を変える──実在への信念 〔『社会学評論』67(4)、2016〕
  • 調整と介入──社会調査の社会的な正しさ 〔『社会と調査』15、2015〕
  • 爆音のもとで暮らす──選択と責任について 〔『シノドス』、2015〕
  • タバコとココア──「人間に関する理論」のために 〔『atプラス』28、太田出版、2016〕

マンゴーと手榴弾

[40] 生活史の聞き取りには、実は、最初に発せられるひとことの質問へと至る、ながいながい助走が存在する。その助走の多くは、きわめて事務的で、日常的な手続きである。同時にそれこそが、もっとも誠実さが必要とされる局面でもある。

[59] 「あなたが何を語るかではなく、それをどう語るか、ということにだけ興味があります」といって取材を申し込むものは誰一人いないだろう。私たちは常に、何かについての語りを聞かせてもらうために、そこに行くのである。

ここでは、

  • 〈何が語られているのか/どう語られているのか〉の両者を切り離したうえで、
  • 〈何が語られているのか〉の方を選ぶ

ということが行われている。なぜこのような異様な選択をしなければならないのかは、社会学における(対話的構築主義をめぐる)特殊な論争を考慮しなければ理解できない。(とはいえ、論争を考慮することによってこの選択の意味が理解できたからといって、それが異様でなくなることも正当化されることもないだろうが。) この異様な選択は、社会学の中のごくごく局所的な論争局面でしか意味を持たないし、その他の人たちにとっては関わり合いになる必要のないものであるように思われる。

鉤括弧を外すこと

[90] 「用法の分析それ自体は可能でもあり、また正当な研究プロジェクトでもある。そして内容の分析と用法の分析は、それぞれ異なるプロジェクトとして並立できる。しかしそれを「同時に」おこなうことは困難である。」

これも、これだけ取り出してみると理解しがたい主張である。「困難である」という評価は、生活史研究の特殊な論争史を参照して初めて成立しうる、特殊な判断だろう。
これはいったい如何なるゲームであるのか。それ自体が社会解明を必要とし、またそれに値する研究対象ではないか。
社会学者たちは、いったい如何なる資源をどのように用いて「差別問題の社会学的研究」というゲームを成立させ・遂行しているのだろうか。

[91] 〔桜井厚〕は引用符の解除を、まるで語りの所有権の不当な移転であるかのように語っている。それならそれで、彼にはエスノメソドロジストになる道が残されていたはずだ。…しかし桜井は、純粋な相互行為分析としての経験的方法を用いるエスノメソドロジストにはなりきらなかった。それは彼の方法にいまだに、社会問題の「内容」に対してのコミットメントがあるからである。

さらに驚くべき主張が続く。ここで岸政彦先生が語る「エスノメソドロジー」とは何のことなのだろうか。

海の小麦粉

前章で「枠組と内容を分離することはできない」と主張したあとで、

[120] しかしここでは逆に、ひとつの短い語りのなかに数十年にわたる時間が同時に存在しているということ、複数の過去が現在のなかに折りたたまれていることこそが、語りを歴史と構造の中に置き直して考えることを可能にするのだということを述べたい。沖縄的なものは、多民族社会におけるロマンティックな他者でもないし、亜熱帯の気候のなかで受け継がれた「文化的DNA」が生み出すものでもない。同時にそれは、相互行為のなかでそのつど構築される単なる言葉なのでもない。沖縄的なものは確かに実在するが、それは沖縄の固有の歴史と構造のなかに埋め込まれている。私は沖縄的なものについての語りを徹底的に世俗化したいと思う。私はもういちど、語りと歴史との、語りと構造との、語りと実在とのあいだの結びつきを取り戻したいと思う。

と書きつけるのはどういう冗談なのだろうか。「AとBの結びつきを取り戻したい」と望むことができるのは、AとBが切り離されているときだけだろう。つまり、そう望むことができるためには、「AとBは切り離されていることが可能だ」と考えているのでなければならないはずである。

プリンとクワガタ

[151] それにしてもクワガタという言葉は、具体的なエピソードとディテールを連ねて書かれたこの本のなかでも、突出して具体的で、あまりにも奇妙で、だからこそ、それがそのときその場所で実在していたということを強く印象付ける。

意味が分からないよ。

タバコとココア

[340] 「人間に関する理論」とは何か。それは、そのような状況であればそのような行為をおこなうことも無理はない、ということの「理解」の集まりであり、あるいはまた、そのような状況でなされたそのような行為にどれほどの責任があるだろうか、ということを考えなおさせるような「理解」の集まりである。… この理論によって得られるのは、たとえば、過酷な状況の中でも人びとは楽しく生きることが可能であるということ、そしてのそのような生が可能だからといって、その状況の過酷さを減ずる必要はまったくないという「理解」である。

訳が分からないよ。