第三部第八章:村中知子「ルーマン・メディア論の射程」

  1. 問題の所在
  2. パーソンズからルーマンへ──相互交換メディアからコミュニケーションメディアへ
  3. シンボルとして一般化されたコミュニケーションメディアとはなにか
  4. むすびにかえて
  • 社会理論を、1)社会分化理論、2)進化理論、3)シンボルとして一般化されたメディアの理論から構成する というのがルーマンの試みのエッセンスをなしている[...]。ルーマンの主張の要は、19世紀以来の社会理論が 社会分化理論と進化理論によって構成され、コミュニケーションや動機づけの問題にほとんど光があてられてこなかったことへの積極的な代替案を提起したことにある。その代替案が、シンボルとして一般化されたメディアの理論の内容をなしている。[p.396-397]
  • [...] その社会理論上の位置づけをめぐる評価としては、分化理論と進化理論からメディア論を自立化させる意義にかかわってこよう。[...] [メディア論は、]分化と進化とを短絡的に結合させて構成される社会理論[...の...]インバランスを矯正しようとするものである。[p.397]
  • ルーマンによれば、システム分化理論は社会理論の事象次元を、進化理論は時間次元を、メディア理論は社会的次元を表象している[...]41
41 [『啓蒙』のSGCM論文。] 同様の記述として次のものがある。「進化が社会というシステムの時間的な意味性を分節化し、分化が事象的な意味性を分節化するのだとすれば、コミュニケーションは社会的な意味を分節化するのである。」N. Luhmann, Macht, S.5. 邦訳七頁参照。



三 シンボルとして一般化されたコミュニケーションメディアとはなにか
2 シンボルとして一般化されたメディアの構成要件

  1. メディアはコミュニケーションの成果を確保するために、理解を自らの選択として受け入れる動機付けの機能をも果たさなければならない。[p.392]
  2. ダブル・コンティンジェンシーの架橋: 他我から自我への選択の伝達過程をそれぞれの選択性(〜自由)を保持しながら操縦しなければならない。[p.393]
  3. コードとプロセスが分化していなければならない。[p.394]
  4. 事象次元・時間次元・社会的次元において、シンボルとしての一般化がなされていなければならない。[p.395]
  5. 共生のメカニズムを持っていなければならない。[p.396]
1: 動機づけ
  • [メディアの動機づけ機能が] 他者がおこなった選択結果を事故の選択のさいの出発点として受け入れるように勧めるのであり、しかも通常の場合、そうした受容を期待可能にする[...]。[p.393]
    • 別言すれば、コミュニケーションにおける選択が同時に動機づけの促進剤として作用し、コミュニケーションのなかで提示される選択に従うことが十分確実ならしめられうるように、コミュニケーションの選択がそうしたメディアによって条件付けられるのである。
  • したがって、コミュニケーション・メディアは、一方の選択様式が同時に他方を動機づける構造として役立つばあいには、いつでも形成される可能性がある。[.393]

なにもいってない。

2: 伝達過程の操縦=再オリエンテーションの省略
  • メディアは、選択結果の伝達、厳密にいえば、初発の布置状況を抽象し単純化した諸条件のもとで、選択結果を再生産することを可能にしている。この抽象と単純化のために、具体的な端緒、つまり選択連鎖の初発時のコンテクストの代わりをするシンボルが用いられる。メディアがシンボルとして一般化されているということは、したがって、選択と動機づけとがメディアによって象徴されていることにほかならない。[p.393-394]
  • コミュニケーション・メディアは、オリエンテーションの共通性と選択の非同一性とを結び付けている[...]33。言い換えれば、
    • 状況の複合性を縮減し、
    • 一方から他方への再オリエンテーションの必要性をカットし、
    • 相補的な期待を形成せしめ、
    • ついで このような期待にもとづいて行動(体験と行為)するのを可能にしているのである。[p.394]
  • 動機づけの機能とは、メディアが使用される際に、そうした因果連関が人々に想定されうるようなオリエンテーションを可能にするものなのである。したがって、メディアの機能や効果は、いかなる性質、いかなる感情、いかなる原因がじっさいにみられるのかということでは把握されないのである。メディアの機能や効果がなんであるのかは、そこで可能なコミュニケーションがいかなるものであるのかが了解されることをつうじて、コミュニケーションの関与者につねに媒介されているのである34。[p.394]

てことなら、検討の焦点は、「オリエンテーション」なるものとは何であるのか、という点に絞られるかな。

3: コードと過程の分化
  • コードの機能は、それぞれ任意の項目が その関連ある領域において それと別の相補的項目を探し出せることに依拠している36
    • [...] 具体的なそれぞれの個別的状況のもとで、一定の選択的な行為を産出せしめる蓋然性は、こうしたコードのはたらきに負うているのである。とはいえ、それは、他我が自我の行為を具体的に定めるということに短絡的に理解されてはならない。シンボル・コードによってコミュニケーションを操縦しうるということが意味しているのは、パートナーの選択の範囲の制限なのである。[p.394-395]
4: 一般化
  • メディアは、具体的なコンテキストを選ばず、時間を越えて流通し、だれかれを問わずに用いられねばならない。
    • [...] いつでも、どこでも、だれとでも恋に落ちる可能性を排除できず、そのことにもとづいて親密な社会システムを構築できるからこそ、メディアは一般化されているといえるのである。メディアの一般化はなによりも包摂問題なのである37。[p.395]
5: 共生のメカニズム
  • メディアのゼマンティクについての機能的特定化は、身体との関連をもシンボライズしている。[p.395]
    • なぜ「メカニズム」というかといえば、それぞれのメディアが それぞれ見込みどおりの生体過程の生起可能性を言い表しているからである38。[.395]
  • たとえば、親密さがセクシュアリティに関係付けられているからこそ、パートナーどうしが一緒にいたり、お互いを確かめ合うことの重要さが納得されうる。性関係はなによりも、外部にたいしていっさい表現せずとも、その関係それ自体において成就され純化されることを示しており、そうであるがゆえにみずからの体験が同時に相手の体験であると想定されるのである。[p.396]

共生のメカニズムについて:http://d.hatena.ne.jp/contractio/20060703#1151928527