お応え1

teratsuさん、コメントありがとうございました。http://d.hatena.ne.jp/teratsu/20040505#p4

でもどうなんだろう。「ローマ法/英米法」のカテゴリーに準拠して析出された「法」の機能は、果たして現地において「リアル」なのだろうか。

分からないです*1
ただ、──teratsuさん続けて曰く──

「ライティング・カルチャー・ショック」以後、帝国主義的支配によって「時間」に翻訳され「空間」へと布置された表象が「近代/未開」「先進/後進」という差異=区別であり、世界システムのなかでこの「差異=区別」の生産/再配置を考えるべきなのだ、というところから学問の建て直しが図られていくことになったわけですけども、そういう風に考えると、「ローマ法/英米法のカテゴリーに準拠して析出された「法」の機能」というものはやはり「リアル」と考えてよいものなのだろうか。


もし仮に「リアル」だとして、やはり「ローマ法/英米法」のカテゴリーが現地において、どれだけ歴史的にドミナントであったかどうかにかかってくるのかもしれませんね。たとえば植民地監督者や宣教師なんかが、現地の旧慣=慣習法を保存しないで、「ローマ法/英米法」に準拠/由来した自国の「法」を様々な形で浸透させていったとか。現地の支配的エリートも民衆も、そのような「支配の形」に半ば抵抗しつつも従っていったとか。こういう事実があるならば、「ローマ法/英米法」のカテゴリーを導入して機能分析をおこなう「正当性/妥当性」が確保されるとおもうのですが。

この<現地において>という修飾語が、たとえば、<現地において/人類学的観察者にとって>という区別の一項であること、は分かります。そして/したがって、この区別自体が、観察者の用いる区別である、ということも。そしてまた、<歴史的にドミナントであったか/否か>という区別も同じく、観察者の用いる区別でしょうし、ついでに/しつこくさらにいえば、

帝国主義的支配によって
「時間」に翻訳され「空間」へと布置された表象としての
「近代/未開」「先進/後進」という差異=区別
世界システムのなかでの
この「差異=区別」の生産/再配置

というのも、やはり観察者の用いる区別だ、ということも。


ホーベルのこの議論は、なにしろ40年代〜50年代にかけてなされたもので、なんといっても古いです。50年以上の距離をとって眺めてみることになる現在の読者にとっては、むしろ「基礎法学的概念をそのまま人類学が使えるのか?」という疑問がわいてくるほうが「ドミナント」ではないか、とも思います。それはそうなのですが──そして実は私自身もそうした「先入見」をもってこの本を読み始めたのですが──、なにしろホーベルがこの本を書いた時には、まだ「法人類学」というプロジェクトは始まったばかりで、そこで依拠できる──人類学「プロパー」の──議論は そんなにはなかったのだ、という「但し書き」も、添えておきたくはなります。(そして、50年代の議論にしては、ホーベルは かなりうまいことやっている、というのが、とりあえずの読後感でした。)

もっとも、「事例研究」が著作の半分を占めているわりには、扱われている事例が──1954年という執筆年から考えても──少し古すぎるのではないか、という気はしましたが。
「歴史的に後から来た者達」*2は、現代の「流行」に照らして
たとえば【世界システムのなかでこの「差異=区別」の生産/再配置を考える】というのは、現代におけるそれであるように私には思えるのですが
過去を裁断することも可能(だし、むしろしばしばやってしまうわけ)なのですが、しかしそうしてしまうと、「歴史的に-後から-来たこと」の利得が、充分には汲めないでしょう。つまり、‥‥もったいない。 我々が、たとえば「メノンのパラドクス」に関して、ホーベルとは特に別の事情にあることができているわけではないことを考え合わせると、そうしてしまうことは、先達が この「メノンのパラドクス」にどのように対処したかを観察することによって 我々自身が学習する機会 を、自分で奪ってしまうことになりかねません。


もう一点。

    • 「(人類学者が使用する)基礎法学的概念(のいくつか)は、現地でリアルなのか」

という問いについて(ベタに)いえば、答えは「違う」になるでしょう。が、問いを少し変えると、つまり、

    • 「現地でリアルな法」を捉まえるのに、どのような基礎法学的概念を(操作的に)使用できるだろうか

というように変更すると、自明性はすぐに失われます。

少なくとも私には、この問いの答えはわかりません。が、むしろこちらのほうが──想像するに──、人類学者にとって「スタンダード」な問いの作法ではないか、という気はします。
さらにこの問いを、

    • 「現地でリアルな法」を捉まえるのに、そもそも基礎法学的概念は必要なのだろうか

と変更してしまうと‥‥‥ これはもう、現時点では私の想像力を遥かに超えた問いになってしまいます。

その場合はむしろ、「それならいったい、ほかにどんなやりようがあるというのか?」という問いのほうがクリティカルなものとして浮かんで来てしまうことになるでしょうが。(こう書くとき、私は単に修辞疑問として書き付けているつもりはありません。ただ答えが分からないというだけです。ここにさらに、「人類学は比較をおこなうものである」という──ホーベルは護持しており、またもっとひろく伝統的に維持=支持されて来たように私には思われる──条件を付け加えると、この問題の難しさはさらに増すことになるかと思います。)


さらにもう一点、法人類学者が開発・精錬した基礎概念によって、基礎法学的概念を変更/修正する──とまでいかなくとも──あるいは、よりよく理解できるようになる──、という可能性を考えてみると、
人によっては、こうした「自己-理解=自文化-理解」こそが「法人類学のもたらす利得だ」と言うかも知れませんが
議論はもっと「複雑に」できるわけですけれども。まぁこの点についてはここでは置いておきましょうか。


とまぁ、こんな風に思ってみたわけですが。
いかがでしょうか。

ところで「ライティング・カルチャー・ショック」とはなんでしょう?

*1:「違うでしょう」というのがベタな答えであるようには思いますが

*2:我-々のことですが。