「受容」とか「作者機能」とかをどう問うか、という課題は、社会学の「理論」的コンテクストにおいては、「役割」概念とどう付き合うか*1、というのと「同じ」。
【追記】20040715 13:48
鰤氏曰く:
そいえば近年は「入庭いいよね」という発話をへのめのろぎー界隈でよく?聞く。〓ーザーではないのはなぜだろう。
「近年」の事情は知らないし、インガルデンおよびイーザーそれぞれについての各業界での評価にも疎いのですが。
あくまで俺様的評価を放言してよければ、この二人、「偉さ」がぜんぜん違うと思います。(もちろんインガルデンのほうが圧倒的にえらい、──と私は思いますがどうか。)
イーザーは、インガルデンの批判をして(or もして)名を上げたわけですがisbn:4000262432、『行為としての読書』を、そこで批判されているインガルデンの著作*と並べて・少し丁寧に読んでみれば、現象学の理解が半端、批判が揚げ足取りくさい、それになにより 議論運びの重要な場所では むしろインガルデンに依拠しまくってる、というように読めます。
もうひとつ、「興味深い」のは──むしろ「唖然とする」のは、と言いたくなるけど──、受容美学が「一定の成功」を収めたあとで登場したイーザーに対する批判が、イーザーがインガルデンに対して行った批判と「そっくり」だった、ということ。
このことの意味をどのように考えればいいのか。(というか禿藁。)
イーザーはこっち↓は扱ってましたっけ。もう覚えてないなぁ。:
インガルデン、『音楽作品とその同一性の問題』、関西大学出版部、ISBN:4873543142、2000/05
なので。仮に「近年インガルデンが‥‥‥」というのがほんとだったとしたら、ひとつありうる「仮説」としてはこんなのが思いつきますが:
イーザーの普及期がとっくに終了し、「イーザーここがだめだよね」という仕方で言及されることが多くなった昨今、そしてその論点が「インガルデンここがだめだよね」とイーザー自身が批判したところと「ほぼにたようなもん」だったとしたら、
てな話になってても、まぁおかしかないか、みたいな。
【追記】20040715 20:33
鰤さま重ねて曰く:
どの界隈で多いのでしょうか。五年前まで記憶を遡っても私は(否定的にすら)彼が言及される場面を想起できませんでした。庭に入る人の入り方をあれこれ思い出すに、お説には多少疑問。そういえば、あと生の哲学から庭に行く人もいるな。
スタンリー・フィッシュどうですか。 「多く」なかったらごめんなさい(藁。