お客さま

「受容」とか「作者機能」とかをどう問うか、という課題は、社会学の「理論」的コンテクストにおいては、「役割」概念とどう付き合うか*1、というのと「同じ」。

「聴取」だの「ポイエーシス」だのについて話がついつい大げさになるのは、そのテのことを扱いがちの人たちが、そのテのことを大げさに扱いがちだから*2。 というかおそらく、そのテのことを大げさに扱いたがる人たちこそが、そのテのことを言語化することを迫られるような人たちだから(だろう。たぶん)。「受容」も「製作」も、参与役割。特別に神秘的な何かじゃない。
特別扱いするやつに限って、曲がかけなくなったり絵が書けなくなったりしたあげくに美学者になっていたりする罠*3。絵がかけないときのリハビリは、絵を描くこと。曲がかけないときのリハビリは、曲を書くこと。「理論化」しても──「理論家」しても──リハビリにはならない。


【追記】20040715 13:48
鰤氏曰く:

そいえば近年は「入庭いいよね」という発話をへのめのろぎー界隈でよく?聞く。〓ーザーではないのはなぜだろう。

「近年」の事情は知らないし、インガルデンおよびイーザーそれぞれについての各業界での評価にも疎いのですが。
あくまで俺様的評価を放言してよければ、この二人、「偉さ」がぜんぜん違うと思います。(もちろんインガルデンのほうが圧倒的にえらい、──と私は思いますがどうか。)
イーザーは、インガルデンの批判をして(or して)名を上げたわけですがisbn:4000262432『行為としての読書』を、そこで批判されているインガルデンの著作*と並べて・少し丁寧に読んでみれば、現象学の理解が半端、批判が揚げ足取りくさい、それになにより 議論運びの重要な場所では むしろインガルデンに依拠しまくってる、というように読めます。
もうひとつ、「興味深い」のは──むしろ「唖然とする」のは、と言いたくなるけど──、受容美学が「一定の成功」を収めたあとで登場したイーザーに対する批判が、イーザーがインガルデンに対して行った批判と「そっくり」だった、ということ。
このことの意味をどのように考えればいいのか。(というか禿藁。)

* 勁草書房ISBN:4326800208 / asin:B000J7I8YO
イーザーはこっち↓は扱ってましたっけ。もう覚えてないなぁ。:
インガルデン『音楽作品とその同一性の問題』関西大学出版部、ISBN:4873543142、2000/05


なので。仮に「近年インガルデンが‥‥‥」というのがほんとだったとしたら、ひとつありうる「仮説」としてはこんなのが思いつきますが:
イーザーの普及期がとっくに終了し、「イーザーここがだめだよね」という仕方で言及されることが多くなった昨今、そしてその論点が「インガルデンここがだめだよね」とイーザー自身が批判したところと「ほぼにたようなもん」だったとしたら、
じゃぁ偉いほうを読んでおけ、ということでひとつ。

てな話になってても、まぁおかしかないか、みたいな。
まぁこーゆー「先祖がえり的」状況は、社会学業界筋でもしばしば見られるものではありますが。
ex. 「MCD」→「役割」みたいなw。(って、同じ「先祖がえり」でも、それはハナシが違いますか。)


【追記】20040715 20:33
鰤さま重ねて曰く:

どの界隈で多いのでしょうか。五年前まで記憶を遡っても私は(否定的にすら)彼が言及される場面を想起できませんでした。庭に入る人の入り方をあれこれ思い出すに、お説には多少疑問。そういえば、あと生の哲学から庭に行く人もいるな。

スタンリー・フィッシュどうですか。 「多く」なかったらごめんなさい(藁。

美学界隈でのインガルデンの受容のされかたは存じ上げませんが。インガルデンフッサール-のもとで-ベルグソン-について-研究していた 人なのであってもみれば、「生の哲学」方面から攻める人がいてもまるでおかしかないとは思いますがそれがなにか。ハルトマンにもパクられてるから、そっち(どっちw?)方面から攻める方もいらっしゃるでしょうし。

*1:=どう始末をつけるか

*2:トートロジーじゃないぞ。

*3:あくまで「たとえば」のはなしです(藁。