涜書:インガルデン『音楽作品とその同一性の問題』

こいつを探しているのだが見つからず。探索中。

文学的芸術作品

文学的芸術作品

文学的芸術作品 (1982年)

文学的芸術作品 (1982年)



で、探索してたら かわりに(?)こいつらが出てきた。
音楽作品とその同一性の問題

音楽作品とその同一性の問題

人間論―時間・責任・価値 (叢書・ウニベルシタス)

人間論―時間・責任・価値 (叢書・ウニベルシタス)

前者は、膨大(かつ歴史的に特殊)な前提に基づく牧歌的に美しい著作。

  • スコアが読め、
    • ということはなんらかの*1楽器が自分でもある程度弾け、
  • ひとつの楽曲(の異なる時点における演奏)を聴くために、(純粋音楽が演奏されるためだけに作られた)専用の空間に(幾度も)足を運び、
  • スコアを透かし合わせながら演奏を聴く

などなどなどといった条件を満たすことが──役割分業者 それぞれの側で期待──できる場合に

すでにこれらだけでも充分にありそうにないことだが

「音楽作品」と「その演奏」とを区別することを通して 純粋音楽が獲得できるであろう可能性

(いわゆる「イデア的」な*、しかし)準時間性と超時間性を併せ持った(という意味では、たとえば数学的対象などとも異なる)特異な存在性格をもつ存在者を──音響構築物をメディアとして──打ち立てる、という可能性

について書かれたもの。
エクリチュールと音響構築物の野合に関する歴史的証言として、価値ある眉唾。

これが書かれた1930年代から たったの数十年で──たとえば「文学的芸術作品」と比べてみると──音楽をめぐる状況が、どれほどカタストロフィックな変容をこうむったかがわかろうというもの*2

ちなみに、「現象学的」な議論を期待してはいけません。見事に裏切られます**。フッサールのもとでベルクソンについて研究した人物が──しかも、いわゆる「時間芸術」などと呼ばれもする対象について──書いたものであることを勘案すると、さらに評価は下がるところかもしれません。ただし「文学的〜」でやったことの単なる「応用」にはなっておらず、知覚メディアの違いに即して分析をやり直しているところは評価すべき、でしょうかね。
* より正確には、「音楽作品は、イデアールな対象でもレアールな対象でもない」(大意)。
** とはいえ、たとえば「音楽作品は、レアールな対象ではない」(大意)という主張が 「作曲者や聴衆の意識経験」(2章:心理主義批判)や「楽譜」(3章:物理主義批判)をめぐる分析によって敷衍されているあたりの議論は「現象学的」、か。(模範的?教科書的?)。

*1:ピアノに決まっているが。

*2:べつにインガルデン読まずとも誰でも知ってるけどな。