『心脳問題』発刊イベント@四谷#に行ってきた【エクストラ番外編】

「保守」談義に対して、mmasumiさんにコメントをいただきました。

  • http://d.hatena.ne.jp/contractio/20040713#c
    なにを書いても──「間違ったこと」を書く以外には──「釈迦に説法」以外のものになりようがないところで書く、というのはなかなかにキツいですが、コメントをいただけると素でうれしくも有り難いので、もうちょっとだけ頑張ってみようかと思う次第。



ともかくも、この話、私にとっては そうとうに扱いのむつかしいものです。

  • 1)「ルーマンは保守的だ」(とか「EMは保守的だ」とか)という文でどんなことが言われているのかを私自身が ほとんど理解できていないので、「想像力」を激しくあれこれと膨らませて かなり頑張りつつ書いている、という点。
    • 1')「革新保守」などというアマルガミック(?)な概念が存在してしまっている時点で既に、「保守的」という形容で何を意味しうるのかは、かなり激しく謎なことになっているはずでして...。
  • 2)「君の依拠している理論は保守的だ」とか、さらには「君は保守的だ」と言われても、それに対して積極的に「反論」をしなければならないような気が、私の側ではほとんどしない(のに書いている)、という点。
    • 2')ここにはひょっとしたら、酒井自身のある種の「政治的センス」の欠如がある、のかもしれませんが。
  • 3)「保守的」という語の対照語は──辞書的には──「革新的」であるが、ここでは「批判的」が選ばれている点。

などなど。
──といったあれこれはあるのですが、ともかくもmmasumiさんのコメントに応答を試みてみますと:

山田さんは、「批判的エスノメソドロジー」という立場をとっておられるので、「エスノメソドロジーは批判的でない」という位置づけは、素朴にヘンテコですよね

この点については別のかた(sepakさん)からも指摘をいただきました。基本的には「おっしゃるとおりです」というところではあるのですが、「エスノは保守的=無-批判的(/非-批判的)」という主張を山田さんに帰したときに考えていたのは、

エスノメソドロジー/オレノメソドロジー>:<無-批判的/批判的>

といった対比ではありました。
「批判的」という修飾語でEMを有徴化されているからには、おそらく「批判的な-エスノメソドロジー」という看板には、「無自覚にエスノやってると無-批判的なままだ」という主張も含意されているのでしょう。したがってこの意味では、「(ふつーの)エスノメソドロジーは批判的でない」という主張を山田さんに帰すのはおかしくない、と思ったのでした。──うーんどうかな。ひょっとするともいちど『日常性批判』を読み返してみたりした方がよいのかもしれませんが...。


次に。
(3)の話。大辞林にて「保守」の項を引きますと:

  • 1)古くからの習慣・制度・考え方などを尊重し、急激な改革に反対すること。←→革新
  • 2)正常な状態を保ち守ること。「--点検」「人の品行を--し / 西国立志編(正直)」

とでていますから、mmasumiさんが、

「保守的」という言い方に、「へ〜」と反応したのですが、「批判的じゃない」ということだったのですね。ふむ。

と──おそらくは違和感を持たれて──おっしゃるのもごもっともでした。
ここで、<保守的>の対照語に<批判的>が選ばれている(従って「保守的=無批判的」という規定が使用されている)のは、もともとの提題「ルーマンは保守的と言われるが....」が登場した、シンポジウムでの言葉遣いに依存しています。

  • [1] パネリストの皆さんが「批判的」という語を頻繁に使用されている中で、
  • [2] 酒井が執筆者の方に質問をし、
  • [3] それに対して「ルーマンは....」が提題された、

という次第。



手短かではありますが、とりあえずこんなところで、mmasumiさんより いただいたコメントへのさしあたりのレスポンスとさせていだきます。
次に、sepakさんからメールにていただいたコメント(を紹介しつつ、それ)について書いてみます。(コメントありがとうございました>sepakさん)


sepakさんのコメントは──私なりにまとめてみますと──、次のようなものでした:

  • [10]「エスノメソドロジストは「保守的」であるとほうぼうから「非難」されている」、と酒井はいうが、(とりあえず日本での)学史的文脈ではそうした受け取られ方は一般的なものではなかったのではないか。
  • [20]確かにEMが「保守的」とされてきた文脈もあるが、それは、ルーマンが「保守的」と評されてきた文脈とは、ずいぶん異なるのではないか
    • [21]ルーマンの場合は、おもに「テクノクラートのイデオローグ」とか、「主体のがんばりをみない」(©もるたん先生)とかいった評価
    • [22]エスノの場合は、たとえば、「マクロな社会構造をみない」「相互行為を-超える・規定する-経済的・政治的条件-をみない」といった評価*
  • [30]したがって、「ルーマンとEMの双方に依拠するがゆえに酒井は「保守的」だ」と主張するのは難しいのでは。

* これに(酒井が)加えて、「<日常性>・<日常的なもの>の無批判な追認」「日常性至上主義」という評価もリストしておきましょう。
そういえば。[21][22]双方をクリアに述べてくれているw方に、ピエール・ブルデュさんがいらっしゃいますな。


このうち、[30]以外についてはすべて賛成します。
が、正直なところ、[10][11]については、【酒井応答2】を書いた時には「忘れて」ました。言われてみれば仰る通り。
[30]については。──【酒井応答2】を自家引用してみますと:

そういえば、エスノメソドロジストもしばしば「お前らは保守的だ」とホーボーから「非難」されているようですし、ルーマンエスノ双方に依拠しようとする私が「保守的だ」という評価をいただくのは、(二重の意味で(?))何ら不思議ではない。のかもしれません。ふふ。

というわけでして、「EMとルーマンは、同じいみで「保守的」と評されている」という主張はしてませんでした。

ただし──指摘をいただいて・振り返って考えてみますと──、「二重の意味で(?)」と書いた時には、おそらく[20]の点について、(一方では、自分でも違和感があったから挿入したのだと思うのですが、他方では、)そんなにはっきりとは意識せずに書いていたのだろうとも思います。


上記の箇所を、いまここで敷衍してみますと:

  • ルーマンは保守的だ」という指摘の意味は、私にはわからない。が、そうした指摘がしばしばなされる、ということまでは知っている。つまり、私にはよく理解できないないが-しばしば生じる出来事が-ここでも生じた ということまではわかる。(EMについてもしばしばそうしたことは生じるが。)
    • 社会って複雑だなぁ。

といったほどのことを言いたかったのかな、と思います。
また別の敷衍をしてみると。上記引用箇所は、自分の主張が「ルーマンに依拠したものだ」と評価されたのに対して、「そうではない(そればかりではない)」と述べたところに続く場所に位置したものです。したがって、

  • 私の主張は、(保守的だ)と評されるルーマンの議論のみを参照したものではなく、EMも参照している。
  • もっとも、EMも保守的だと評されることがあるので、このことは、「私の主張は保守的ではない」という主張にはつながらない。
    • そもそも私は「私の主張は保守的ではない」などと、積極的に-いいたい=言わねばならない-などとは考えていないのだが。

という敷衍もできるかと思います。
ということでお返事になっているでしょうか。>sepakさん



ついでに。
ここで、いただいた上記の指摘を踏まえた上で、さらに「ルーマンとEM」双方について、「同じ」あるいは「似たような」意味で「保守的」だと言われる場合について考えてみますと。


【その1】[21][22]の「共犯関係」説。

  • ルーマンは「テクノクラートのイデオローグ」なので、そもそもダメである。
  • ところで、EMはといえば、「マクロな社会構造をみない」し、「相互行為を超える 経済的・政治的規定条件をみない」し、「国家に規定された状況」を無視する。
  • ので、結局は、EMは、「テクノクラートのイデオローグ」に抗することもできないし、むしろテクノクラートに資することを述べてしまうことになる。
  • したがって両者は共犯関係にある。

もっとも、こういう↑主張を積極的に述べた人がいるかというと‥‥‥。おそらくいませんねw。

これを書いていて思い出したのは、ハバーマスのフーコー批判でしたが。曰く「フーコーは一見【ええもん】にみえるが、香具師の議論は「批判」の根拠を奪い取ってしまう。したがってテクノクラートのイデオローグであるルーマンのような あからさまな【わるもん】ではないけれども、結局は【似たようなもん】なのである」(大意)。[参照先は『近代の哲学的ディスクルス』、かな?]


【その2】「社会記述に徹しているのでダメだ」説。

  1. 批判が出来ないのでダメだ
    • 規範的な主張ができないのでダメだ
  2. 中立的・超越的な観察者の位置にいる(と勘違いしている)のでダメだ
    • 記述が含意する政治性に無自覚なのでダメだ
  3. 観察者の位置にいることを忘れているのでダメだ
    • 「観察者」である自分を「消去」できると勘違いしているのでダメだ*
  4. 記述対象の背後にあるものを見ていないからダメだ
  5.  
  6.  

* このタイプの批判は、今年4月の「アルフレッド・シュッツと友達シンポ」でエンブリーさんがのたまっておられるのを目撃しました。(4月8日のエントリを参照のこと。)