涜書:ローティ『哲学と自然の鏡』01

本日のご金言:

次のように主張する限りにおいて、ライルとウィトゲンシュタインは誤解を招くおそれがある。

日常生活においては、何が心をもち何が心をもたないかについて述べても、誰も見ていなくともテーブルは存在するかどうかについて述べても、何の困難もないのだから、われわれが捕えられていた17世紀的描像の方に何か問題があるに違いない

と。それはあたかも次のように言うに等しい。すなわち、

日常生活においては、思慮と利己心によって愛に課せられた限界を認めるのに何も戸惑うことはない以上、キリストの倣びは適切な理想ではありえない

と。哲学の(そして詩の)伝統を産み出すイメージは、書斎の外で没頭するにふさわしいものではない。ちょうど、宗教の差し出す完徳の勧めが週日に言及すべきものではないように。[p.115-6]

リアクト不能
「ある種の知的なムードに(陥るに)は、書斎こそが相応しい」と言ってるように聴こえるんですがー?


夕食。依然として集中力復活せず。再度1章&2章。

哲学と自然の鏡

哲学と自然の鏡

第1章3節。本書のプログラムについて:

  • 「心身問題」の腑分け;

[p.23-4]

  • かつて「心的なもの」の諸特徴として使われたもののリスト(例)と、本書のプログラム;
1.自分自身について訂正可能な知識をもつ能力
 (「特権的接近手段」)
2章 意識:心の哲学が「生まの感覚」を中心に据えるわけ
2.身体から遊離して存在する能力 1章4節〜 心的存在者:意識が、理性や人格性と何らかの関係があるとみなされるわけ
3.非空間性
 (非空間的部分ないしは「要素」をもつこと)
4.普遍を把握する能力
5.非存在との関係を維持する能力(「志向性」) 4&6章 理性:
6.言語を使用する能力
7.自由に行為する能力 4章4節
7章4節
8章3節
人格性:
8.われわれの社会集団の成員となる、
 すなわち「われわれの一員」となる能力
9.「世界内の」いかなる対象とも同一視されえないこと

[p.24&27]

  • この腑分けから得られる帰結;

[p.26]



本書の目次

  • 第1部:鏡のような人間の本質
    • 第1章:心の発明
    • 第2章:心なき人間
  • 第2部:鏡に映すこと
    • 第3章:「知識論」という観念
    • 第4章:特権的表象
    • 第5章:認識論と経験的心理学
    • 第6章:認識論と言語哲学
  • 第3部:哲学
    • 第7章:認識論から解釈学へ
    • 第8章:鏡無しの哲学