涜書:ローティ『哲学と自然の鏡』02

夕食続き。
第2章3節。「心の哲学」を支えるサブストーリーについて:

心とは、訂正不可能な形で内観される生まの感覚の集合にほかならず、その本質はこの特殊な認識上の身分にあるかのように[他の章で論じられる「非物質性」「抽象能力」「志向性」などを無視して]私が述べているのは、その同じ主張が「心の哲学」と呼ばれる領域全般に流布しているからなのである。この領域の哲学は、ライルの『心の概念』以来ここ三〇年の間に存在するようになったものである。この書物の影響によって、心身に関する問題のほとんどすべてが、デカルト的二元論を解消しようとするライル自身の論理的行動主義の試みに逆らう事例、すなわち生まの感覚を中心に展開されることになった。『哲学探究』における、感覚に関するウィトゲンシュタインの議論によっても、同じ種類の解消の試みが提出されたように思われた。かくして多くの哲学者が「心身問題」とは、生まの感覚は行動への傾向性と見なしうるか否かという問題なのだと当然のように受け取ってきた。したがって、可能性は[‥]三点以外にはないと思われた。すなわち、

  • a)ライルとウィトゲンシュタインの言うことは正しいと認め、心的対象は存在しないとすること。
  • b)彼らは間違っており、それゆえデカルト的二元論は無傷のままだと主張すること。
    その場合、他人の心については懐疑論が当然にも帰結する。
  • c)心脳同一説の一形態を採ること。
    それによると、ライルとウィトゲンシュタインは間違っていたが、しかしだからといって、デカルトの言うところが正しいということにはならない。

 問題をこのように組み立てると、その結果として、焦点は痛みに絞られ、より多く認識論の関心を引く、あるいは引くべき心の側面──信念と意図──にはあまり注意が払われないことになる。(‥) しかし依然として、「心身問題」は第一次的には痛みの問題だと考えられており、痛みの弁別特性はまさにクリプキの言及した点、すなわち、痛みを知る場合には現れと実在の区別はないという点にある。しかるに実際は、第一章で示そうとしたように、これは幾つかある「心身諸問題」のひとつにすぎない‥‥‥[p.97-8]