二次の観察について:その3


[Q4]について、肯定的なお返事をいただきました。
そこで、このエントリでは、前エントリで予告しておいた二つの問いを──しかし恐らくそれは「おなじ」問いなのですが──接続してみます。


まず【定式2】を再掲示

  • c-1:脱構築においては、用いられている 当の区別p同一性書き換えられる
  • c-2:二次の観察においては、用いられている 当の区別p とは 別の区別q用いられる
    • 「当の区別p の同一性」[D] -と-「当の区別p とは 別の区別q」[sO]
    • 「当の区別p 書き換え」[D] -と-「別の区別q の 使用」[sO]



ここで生じる疑問の一つ目。
【定式2】は、【定式1】における「自身」という言葉を──ルーマンの引用を介して──書き換えたものでした。しかし、そもそも【定式1】において この語は、[D] を──[sO] と区別して──特徴づけるために使われていたわけです。それを「ルーマンの引用を介して」書き換えることができてしまうなら、それは、

ということを意味してしまいます。(つまり、ルーマンの見解と一致してしまいます。)
 そうではないのだ。──という反論は可能かも知れません。つまり── 結局のところ、[D]/[sO] の違いは、【定式2】において、同一性(の書き換え) というところに焦点化されたのだから、と。
 そうかもしれません。では先に進みましょう。
 だとすると──ここからが二つ目の問いになりますが、問いのレベルが一つずれて──、「ではいったい、同一性の書き換えとはどういうことなのか?」という問いが問われることになります。

すでにMさんには、「区別の書き換え」と「区別の同一性の書き換え」は異なるのだという趣旨のコメントをいただいていますので、議論がここに焦点化されることについてはコンセンサスが得られた、と考えてよいでしょう。


ではいったい、それはどういうことなのか。


これが明らかになると、Mさんの側にはかなりの成果が上がった、といえる筈です。なぜなら、「同一性の書き換え」は、二次の観察のターミノロジーでは再記述ができない──ように私には思われる──ので、ここに一つ、「システム論には語ることができない脱構築の或る側面」が明らかになったことになるだろうから、です。


しかしいったい、では、それはどういうことなのでしょうか。──「同一性の書き換え」とは?


これについては、Mさんに敷衍していただくしかありません。それを待ちつつ、私としては、次の疑問を書き付けておきたいと思います。

「区別の、区別による書き換え」に対置して「(区別の)同一性の書き換え」が語られうるためには、そこにおいて、「区別を介さずに同一性にアクセスできる」という前提が必要なのではないか?

しかしこれは、デリダが「現前(性)の形而上学」と呼んだヴィジョンではないだろうか?


【定式2】/[Q4]については以上です。

が、この私の疑問は、次のエントリを介せば、いますこし敷衍できるでしょう。



【追記】