二次の観察について:その6

mixiルーマニ屋>「デリダとルーマン」スレのために。
ルーマン『社会の芸術』第二章「一次の観察と二次の観察」(XII 観察と脱構築) を巡って。その6。 エントリの19番について。(引用箇所はエントリの20番に掲示しました。)


【引用10】について:
 残念ながら、この箇所は、どうしてこういう議論が出てくるのかわかりませんでした。

そもそも、目下のところ、どのコミュニケーションについて論じているかを特定していないのに、どうして、その「何であるか」という点(での特定性・関連性)について──しかも、それが「ない」(!)と──論じることができるのでしょうか。


上記の点が理解できなかったので、今回いただいたお返事については全体としてうまく応答ができないのですが。 【引用11】についていえば、私は、Mさんが──「デリダの書いたものを」ではなく──「ルーマンのテクストやババボンや私の書いたものを」読むときに どう振る舞っているかについて指摘したのでした....。

Mさんが「ここには大きな違いがある」(【引用10b】)と考えたうえでおこなってみせてくれたことは、──〈指示される或るもの/或るものへの指示〉をペアとして扱うという仕方でババボンを読み直すということではなく、そ の か わ り に──、「(自己主題化の場面における)同一性」に関連づけて「固有値」や「客体」といった新ネタを持ち出してみる、ということだったので、それは無駄ですよ(というだけでなく、アブナイ橋渡ってますよ)、と述べた次第。


ま、それはそれとして。


【引用12】について:
結構です。
では、以下、場面をババボンが扱っている議論に特定しましょう。すなわち、

  • 法的なコミュニケーションにおいて、
    • 「法の 本質quidditas とはなにか」「法はいかにあるべきか」といった問いを立てたりそれに答えをあたえたりすることを通して
    • 「法というもの」の描写がおこなわれている

という、そのような場面について。


すると私の尋ねたかった問いはこうなります。

この場面において、

  • c-1:脱構築においては、用いられている 当の区別p の 同一性が 書き換えられる
  • c-2:(自己主題化という)二次の観察においては、用いられている 当の区別p とは 別の区別q が 用いられる

というMさんの主張は、それぞれどんなことを謂っており、また どのように正当化されるのか。


いかがでしょうか。