涜書:ルーマン『社会の経済』

昼食。第8章「意思決定行動の社会学的局面」再訪。

社会の経済

社会の経済

序盤戦では二つの大事なことが述べられている。
一つは、社会学は、社会学が扱ってよかったかもしれないことを、どのようにして己の視野から外すか、ということ:

 [‥]興味を引くのは、[社会学ウェーバー型の]行為理論を選んだ結果、独立した社会学的意思決定理論が発展しなかった、という点である[‥]。なぜ発展しなかったのかというと、一方で、社会学的に興味を引く事柄は行為概念の中にすでに取り込まれているように見え、他方で、合理的決定への特別の関心は社会学の学問境界の外にあるように見えたからである。

これに対しては──[‥]──例外を指摘できるが、そうしたケースにおいて意思決定概念と意思決定分析が[社会学に]持ち込まれる場合、そのやり方は経済学の道具に依存しており、社会学的な理論関心に指向した独立の意思決定概念にもとづいてはいない。[p.279-1]

もう一つは、扱ってよかったかもしれないことを、社会学は どのようにして己の視野にもたらすことができるか、ということ:

 [意思決定をどのように捉えたらよいのか。通常そうされているように「選好」というユニットを考えればよいのか。しかしそこで前提とされているロジカルな構造によっては、意思決定が出来事であることが捉えられないのではないか、云々‥‥といった] これらすべてのことは、たんに対象への学問的接近の問題であるのみならず、まずは・そしてなによりも、行為者たち自身の問題である。彼らは、一緒にいるときに何が起こるのかをどのようにして観察し、どのようにして知り得るのだろうか。[p.283]

後者の提題に対しては、すぐに「回答」がつづく:

 彼らは予期に頼り、そこからいわば逆算して行為ないし意思決定に至るのである。残る不確実性はコミュニケーションによって除かれる。すなわち、人々は意図したままをお互いに知らせあい、出来事そのものに関してではないにせよ、その意味と目的に関して了解しあう。こうしてシステムは自らのコミュニケーションにおいて、もとの自己観察の代わりにたえず自己記述をつくりあげ、この自己記述はさらに、あまりにも複雑なもとの出来事にとって代わり、あとに続く行動に道を開くのである。[p.283-4]

この回答自体には議論の余地があるが。

ここは、「自己観察」と「自己記述」の違い*がクリティカルな仕方で用いられている例の一つ。
ここでいう「自己観察」は、DQA水準のオペレーション──行為の再生産[つまりシステム(の基底的的自己準拠)]──を指している。
だが、この著作だけを読んでその点に気づくことは ほとんど不可能ではないかと思われる。
* この2概念は、ほぼ同じ意味で使われることもあるし、こことは異なる仕方で対比的に用いられることもある、やっかいな概念ペアである。こことは異なる使い方の例としては、「自己記述」が、「反省的自己準拠」の水準を指して用いられている場合 がある。