ルーマン『社会システムたち』

トッシキスレ承前。

社会システム理論〈上〉

社会システム理論〈上〉

だめだこりゃ.... な感じ。第5章第1節。邦訳 p.285〜

 社会システムのばあい、システムと環境との差異がシステムそれ自体において使用可能であり、その社会システムのオペレーションを調整するために用いることができるということは、疑いにくいといってよい。社会システムでは、自己観察を可能にする自己描写の形式についてもまたすでに知られている。そうした自己描写は、コミュニケーションから行為への縮減を利用している。

コミュニケーションは、情報を含んでおり、そのために情報が環境からもたらされるのならいつでも環境の意味を蓄積しているのだが、

行為がシステムに属するのかどうかについては、比較的容易に決着をつけることができる。行為の意味は、環境を指し示すことがあり、たとえば人びとは市場のために生産している。しかし、行為それ自体の選択は、社会システムのなかにおいておこなわれており、その社会システム固有の規則によって操縦され、環境の行為とは違って、社会システムの責任においておこなわれている。そうしてみると、コミュニケーションと明確にかかわっている行為は、社会システムにおけるシステムと環境の差異の効果的な実現に適している。
 したがって、社会システムを行為連関に縮減して社会システムを描写するということは、システムと環境の差異をその社会システムにおいて効果的に用いて、つまりたとえば、その環境からシステムを区別させているメルクマールをそのシステムに帰属させている、いっさいの観察の前提なのである。このことは、外部からの観察にも内部における観察にも同様にあてはまっている8

  • [一方で、]そうした内部における観察といえるのは、社会システムのコミュニケーション過程においてテーマとされるものに限定されている。というのも、社会システムは、コミュニケーションをとおしてしかその社会システム自体に接近しえないからである。
  • [他方で、]心理システムは、社会システムに参加し、コミュニケーションに関与し、行為に寄与しているのだが、そうした心理システムのおこなう観察は、社会システムからすると外部からの観察なのである9
外部からの観察と内部における観察の区別は、それ自体としてシステム/環境-差異を前提としている。この区別は、観察を観察するための区別として役立っている。言い換えると、そうした区別は、いわゆる「参与観察」の理論と方法にとって重要であるといえる。参与観察は、観察を観察するさいには、その対象が行為という形式をとっているということを前提にしなければならない。
8 とくに科学的観察の場合、問題が生じるのは、行為をとおしてコミュニケーションを推論するほかはないということからであり、たとえば情報といった観察できないもの(あるいはほとんど観察できないもの、ないし間接的にしか観察できないもの)を検証可能なデータとして取り扱わなければならないということからである。

 以上の陳述ではまだ、いかにして社会システムが行為システムとして自己描写することをとおして環境との関係を展開しうるのか、またはいかにしてこのようなシステム描写のなかヘシステム/環境-差異が組み入れられるのかについては明らかにされてはいない。

いずれにしても、「適応」だけが重要なのではないし、また同様に「複合性の縮減」だけが重要だというわけではない。あるシステムが、なんらかの自己描写をおこなうさいには、システムと環境の差異を一方の方向で捉え、それを取り扱うだけではない。というのも、その差異のもう一つの方向がつねに同時に顧慮されているからである。そんなわけで、そうした差異の方向については、典型的には、二つの部分から成る問題形式が有効であることが確証されており、システムと環境の差異は、たとえば分解と再結合、有用性とコスト、変異と選択的保持、複合性の縮減と増大といった、条件づけの可能な対立項として操作化することが企てられている10。そのようにして、システムと環境との差異を前提とするさらなる差異が、そうしたシステムと環境の差異に接続することになる。

 社会システムは、行為システムとして把握されるのだから、帰属可能な行為の基礎過程に関係づけられなければならない。行為として実行されうるものだけが、社会システムで点検可能なリアリティを有しており、そうしたリアリティだけがこのさいには重要なのである。そのばあいには、環境は、外部への行為シークエンスの延長として、つまり社会システムにおける諸行為のための諸条件のコンテキストおよびそうした諸行為の結果のための諸条件のコンテキストとして考えられなければならない。

こうした考え方は、理論的な構想としては、十七、十八世紀以来、つまりホッブスヴィーコ以来、新しい種類の行為概念とともに用いられるようになっている。まさしくこうした考え方によって、あの二重の定式も使用され始めている。そのことについては、本章第七節においてインプット/アウトプット図式を論究するさいに再び取り上げることにしたい。
  • 「システムと環境の差異をその社会システムにおいて効果的に用い」た「いっさいの観察」って、「基底的自己準拠」じゃないんじゃないの??
  • 「自己観察を可能にする自己描写の形式」ってなに!!
    「コミュニケーションから行為への縮減」ってことなんでしょうが...
  • 「社会システムは、行為システムとして把握される」って、誰にだよ!
    一次の観察においても二次の観察においても(内部における観察においても外部からの観察においても)、ってことなんでしょうが...
  • 「再び取り上げる」ったって、あんたそこでは「基底的自己準拠」の話なんかしてないだろうが!


ききたいのはスローガンじゃなくて論証なんだけどねぇ。