涜書:小野「ニクラス・ルーマンの現代政治認識」/奥山「組織における構造化と環境」

昼食。

  • 小野耕二,1982,「ニクラス・ルーマンの現代政治認識」, 『名古屋大学法政論集』(92):1-67
  • 奥山敏雄、1989, 「組織における構造化と環境──決定プログラムとしての目的の含意」, 『社会学ジャーナル』(筑波大)、p.82-101


■小野1982見出し:

  • はじめに
  • 第一章 基本視角
  • 第二章 前提:現代社会の歴史的位置
  • 第三章 政治による経済の制御
    • 第一節 ルーマンの社会分化論
    • 第二節 国家介入主義とその西ドイツ的な状況
  • 第四章 行政による決定送出と決定の「自動化」への方向性
  • 第五章 ルーマンの政治認識
    • 第一節 政治における「権力」
    • 第二節 手続きによる正統化論と価値オポチュニズム論
  • むすびにかえて

ルーマン理論をいわゆる「同時代の社会背景」に照らして読もう、という論文なのですが。やるならもっとベタにやってくれれば面白かったのに。片手間かつ通りすがりに「ルーマンは当時の政治潮流のなかではネオリベ(大意)とか言ってみてもねぇ...。
あとこれ。
■奥山1989見出し

  1. はじめに
  2. 組織のダイナミクスについての新たな見方
  3. 新たに孕まれる諸問題
  4. 因果モデルからの脱却
  5. 機会主義的価値実現と決定の制度
  6. 決定プログラムの目的
  7. 結語



■こ れ は ひ ど い

ルーマン[目的合理性に対してシステム合理性を対置することにより]「目的-手段図式」によるような「目的的思考」の貶価を行う。彼にとっては、システムは環境の変化に対応して自己制御をおこなう行為主体として措定しうるのであり、従って固定的な目的設定とその追求とは、かえってその自己制御能力にとってマイナスを結果するものと考えられるのである。
 このような、システムを主体として把握するという論理は、逆からいえば、システムを構成する諸個人の主体性に対する問題視角を希薄化せしめていく。この点を、パーソンズの「価値体系」論に対するルーマンの批判の論理から検出してみよう。

  • ヴェーバーの、「理念」と「利害状況」という二重の視角からの歴史分析
    すなわち「宗教(思想)的カリスマと経済生活との緊張」という視角からの「歴史のダイナミックス」の把握
    が、
  • パーソンズにおいては、制度化された「価値体系」を内面化した個人によって構成される「社会システム」の、「適応能力の上昇」という「社会進化」の漸進的過程へと転換されていく。
    しかし、パーソンズにおいては、「行為の目的設定の独立性」という形で、個の主体性は担保されていたのであり、それを社会システムへと連繋づけるためにこそ、「価値体系」の存在が必要とされたのである21
  • ルーマンは、パーソンズの提起した「価値体系」の存在自体を否定し、システムの自己制御性を強調することにより、システムの決定へと関与しまたは「システム問題」への解決へむけたこの行為の主体性に対する視角を喪失させていく。

パーソンズにおいては価値体系自体が「システムを超えた目的」へと個を駆り立てていく、いわば宗教的機動力としての役割をも果たしていたのであるが、ルーマンはそのような方向性そのものを否定するのである。[小野1982: p.11-12]

1) パーソンズ理論の分析に関しては、以下の拙稿を参照。 なお、「正統性」に関するパーソンズルーマン・ハバーマスの三者の理論の連関について検討した、次の拙稿をも参照。
  • 「現代資本主義国家における『正統性』問題」、田口富久治・藤田勇編『講座現代資本主義国家・第一巻・現代資本主義の政治と国家』所収、大月書店、1980年isbn:427220002X
21)[→(1) ]

「judgemental dope」に対する批判などなかったかのようであります。