ぱらぱらする。駄本の予感。

哲学と言語―フッサール現象学と現代の言語哲学 (広島修道大学学術選書)
- 作者: 宮坂和男
- 出版社/メーカー: ナカニシヤ出版
- 発売日: 2006/12
- メディア: 単行本
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目次
- 序章 現象学とはなにか
いちおう読んだ。
なんと、「現代の言語哲学」についてはほとんど何も書いてないよ。どういう商売だろうねこれは。
9-5 結語
脱構築の議論が、〈規則〉の反復的適用という平凡な事象として捉えられるということは、意外に感じられるであろう。だが、デリダの主張の一端はこの点にあるのであり、その点でヴィトゲンシュタインが提示した問題性と重なるところをもっている。注目されるべきなのは、『哲学探究』の次のような箇所である。〈規則〉について深く考えたヴィトゲンシュタインの思索のなかには、脱構築的な見方に合致するものが含まれている。
「あたかもわれわれは、語の全使用を一瞬のうちに把握することができるかのようである。」……奇妙なことがあるとすれば、それはわれわれが、その後の未来における使用が、何らかの仕方でその把握の行為のなかに現在すでに存在していなくてはならず、とはいえしかし、その未来における使用は、現在はもちろん存在していない、と考えるように導かれるときである[探究§197]。
「規則に従う」ということは、[‥]、現在において行われる発言が別の機会にも同じように発せられる≪可能性≫を伴っていることを意味している。したがって、規則にしたがって発言が行われたとき、この現在における語の使用のなかに、未来における使用があらかじめ浸入しているということができる。未来は現在とは別に存在するはずであるにもかかわらず、ある仕方で現在に属しているということに着目している右の箇所には、脱構築の見方に重なるものが現れている。[p.254]
眉唾。
むしろこれは、「未来は現在とは別に存在するはずである」という見方には どこかおかしいところがあり、その点をうまく捌くことができれば、われわれは「脱構築」などというヘンな考え方を必要としない
‥‥ということを示唆している議論であるようにも思われますがどうか。
結語もすごい。
デイヴィドソン的な方向の探究において、言語と事象とのかかわりがどのようにしてどの程度まで確保されうるのかは、今後明らかにされなければならないであろう。また、ヴィトゲンシュタイン的な方向の意味論において、規則が適用されるときの≪反復≫がいかなる形態のものであり、どの程度可能なものであるのかも、これから検討されなければならない。この両者の名前は差し当たって私に思い浮かぶものにすぎないが、ともあれ、これらをはじめとして本当の課題は今後に控えているといわなければならない。[p.257]
工工工工エエエエエエエエェェェェェェェェΣ(゜Д゜ノ)ノ