【( ´∀`)著者さんと】大黒本【語ろう(°∀°)】

夕食。合評会準備スレ。ひきつづきさらにしつこく『表情 (弘文堂・思想選書)』。


■廣松哲学体系の構図:[3章3節 p.172]
表情活動は、

  • 社会的行為論の論脈においては、役割行動の形成と展開を発達論的に跡付ける脈絡の中で重要 [→2章で検討]
    ただし表情論の射程は役割行為論のたかだか一端にまでしか及びません。
  • 言語的行為論の論脈においては、交信活動の生成と構造を記号論的に解明する脈絡の中で重要 [→]
      • ほかにも、「他我認識論」「自己意識・他己意識形成論」「相互承認論」「共同主観性理論」などなどの論点あれど略。
議論の包含関係:
  • 言語活動は役割行動の特殊的一形態であり、かつ、一般の役割行動・社会的行為の媒介的一手段。
  • 表情活動は言語的交信の前梯をなし、かつ、それを俟って甫めていわゆる言語が成立しうる。


という事情があるので、もしもルーマンが「コミュニケーションとは言語的なものだ」みたいな趣旨のことをちょっとでも述べていてくれると、廣松/ルーマンの差異を用いて自己卓越化したい*、というような人がもしいるとすれば その人にとって大変便利だ、ということになるわけです。さて。

大黒さんは現象学派じゃなくて「現代に生きる新カント派」さん(という希少種)ですが、ことこの点に関しては、現象学的社会学さんのひとがしばしばやってくれがちな類の批判をしてくれてます。つまり(ルーマンの)コミュニケーション概念をあらかじめ狭くとったうえで「コミュニケーションには前提**が必要だ」と主張するやりかた。
* なんで「両方のいいところをうまくつかってみよう」という話にならないんでしょうか。おもしろふしぎですね(わらい
** そこで何を持ち出すかによって議論はいろいろにわかれますが。(たとえば mutual tuning とかね。)


■廣松哲学の基本テーゼ:[3章3節3項 p.224-226]

言葉のお約束 [p.221]
  • 他我認知=他我承認:他者を能知能情能意的ないわゆる意識主体として認知すること。
  • 他者理解=他者認識:他者の表現を理解すること

著者は、自我の成立条件として、共軛的「他我」意識の現成という事態に止目する。そして、他我認知と他者理解とは、原基的位相では同時相即的であるとしつつも、論理上はむしろ、その場その場での「表現」理解に即しての、共軛的な対他対自的な分立に定位した、他者理解から他我認知の成立を説く
 まさしくこの脈絡において、著者は、ほかならぬ「表情現象」に着目するのである。主体(生命体にして且つ意識体)としての認知過程が、まさに所与の舞台的場における表情現象、さしあたっては、情態や期待の直截な感得に即して進捗する。(‥)

 茲では対他対自的な役割行動の認知的構造の分析に立ち入らないため短絡的な言い方になるが、

役割期待の察知は、舞台的場面認知と緊合しており、単なる「あの身」だけを認知対象として現成するものではない。──叙示される認知事態の理解が原初的に可能になるのも、知覚風景内に自他が共属し、「同一」対象に視線を向けるという体勢があってのことであり、記号的呈示与件だけを認知対象としてのことではない。

  • 覚識情態を表情性感得において他者に帰属することが、とりもなおさず、当の他者を或る主体として認知することにほかならない
  • [この↑]「他者理解」と同時相即的に、当の他者が「表現者」としての規定態で措定される所以となる [p.230]


えーと。まぁ一言でいえばつまり「社会システムがある」、と。

「舞台的場面-期待」複合というのが「選択性」のこと。
それを「環境世界」と呼んでしまうと──そこでターミノロジーの不一致がおきて──話が通じなくなる。(それは「環境」ではなくて「システム」のほうに属する。)