ルーマン『福祉国家における政治理論』

移動中に3周半ほど。飽きた。
この本は最後の章が「要約」なので、そこから読むとよいですよ。>買ってしまって困ってる人。

福祉国家における政治理論

福祉国家における政治理論


夕食。さらに重ねて2周ほど。

あいかわらず、

一方で「政治システムの(社会学的)記述」「政治システムの自己記述」
加えて、「政治システムの日常理論」
という重要な区別を提起しておきながら、他方で

両者の扱いを しばしば判然とさせずに議論を進めやがるので読んでいてたいへんに苛々させられる件。

ちなみに、タイトルにいう『福祉国家における政治理論』とは、「政治システムの自己記述」のほう。


もう「褒めて伸ばす」しかないのかこの人は。
思いついた面白いアイディアを、どのように学的に具体化させるべきなのかを──死ぬまで──わかんなかったんだなぁ。おいたわしや。



教育はフンボルト以来、経済はケインズ以後、科学的研究はポパー以後、計画されるものになった。[p.161]

どーん。


ルーマン先生の、自分の仕事についての自己理解: 「実践の理論/理論の実践」について

XIX 要約

(5) こうして[政治的コミュニケーションに関するシステム論的分析を通じて]姿を見せる[「福祉国家」をめぐる状況の]全体像は、政治システムの 自己に対する 過剰な要求 として特徴づけられる。

福祉国家の原則として、治安や財政に対するあらゆる要求は、世論、政治的に重要な人物、法 という鍵盤に乗せて唱えることさえできれば[=政治システムが扱いうるかたちでなら]、その限りにおいて真面目に受け取られる。それと同時に政治システムは、叶えられた要求 を 持続的要求 のかたちで蓄積する。成果を 法と貨幣のかたちで記録するのは、成果を見えやすくして ひとに意識させる過程である。だからこそ、階層の再編や地位の低下を考えると、かならず脅迫的な不平不満が怒る。関係者は身を守ろうとし、それ以外の者は、ほかならぬ自分の利益の貫徹にかかわっているから、無関心なままである。

 もちろん、この問題に特効薬はない。[‥]
 この事態を分析する[システム]理論の抽象性を、効果的な手段の処方 と誤解してはならない。そのような誤解をすると、理論の「実践的意義」を理解することが困難になる。理論の実践的意義は、本質的に、連関の理解異なる基礎のうえにおいてみる* 点にある。そうなれば、政治的コミュニケーションにおける異なる用語法がうまれ、しだいに政治的議論における異なる知的スタイルがうまれるかもしれない。これが成功すれば、政治が〔60年代初頭から80年代初頭にかけての〕ここ20年のあいだに 知識人や若者や国民の大部分において経験してきた信頼の喪失に鑑みて、それだけでもう重要な成果である。諦め気味の改革の熱意から 自己の仕事に距離をおいた現実診断へと、政治の表現形式を転換することは、やりがいのあることだろう。[p.164-165]

* 原語何? ([あとで確認] >俺)


うへー

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