オルト『フッサール〈危機〉書の研究』

社会学理論学会一日目(の夜の部)にて、『エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)』のキャッチコピーである「〈あたりまえ〉から学ぶ社会学」について、現象学的社会学者二人から疑問が提示されるとともにフッ君の話にな──って、つい「お前らそれでも現象学者か」とか言ってしまった*りし──た。ので(?)、ちょっとおさらい。

フッサール「危機」書の研究 (西洋思想叢書)

フッサール「危機」書の研究 (西洋思想叢書)

* とりあえず──論者のいう──「カント的な批判」の意味が明らかになるまでは 撤回しないでおく。
カントは物理学(の存立と真理性)を──言葉のふつうの意味で──「批判」したか? 疑ったか? ──してないよな。
ヒュームの懐疑-のあとで/に抗して-「物理学は如何にして可能か」「物理学が真だといえるのはどのような仕方においてであるのか」を検討したんじゃねーの? ……と とりあえずは返しておく。
「カント的な意味における批判(すなわち吟味)」と言われる時にまず問題なのは、そこで吟味されているのはなんであったのか、ということでありますよ。
それは「意識(一般)」の心的能力(特に推論能力)だった──のであって、物理学の方ではない──よね?  そしてまたカントは、物理学に対してなんかの変更が必要だとか言ってないし、実際、なんの変更も加えようとはしてなかったんじゃない? ‥‥という俺の理解のほうが間違ってるのか???


それ↑とは関係ない*けど。

歴史的アプリオリ-と-歴史的なもの

ルドルフ・ベルネット**はフッサールの「幾何学の起源」に対するデリダによる注釈の「ドイツ語版への序言」の中で大変適切に次のように定式化している。

歴史のアプリオリは歴史的な事実から出発することによってのみ現象学的に研究されうるが、事実はそれでもそれとしては歴史の本質の少なくとも暗黙の理解のおかげでのみ歴史的なものとして認識されうるのである。歴史に携わる者は、彼がいたるところで円環の中を動いているということをきっとすぐに発見する11

このコメントのなかにわれわれはフッサールの志向性の哲学のより古い二つのモチーフを再認識する。[…] ベルネット自身は、(デリダと共に)『危機』の重要な第9節1(VI,S.58ff)すなわち「われわれの解釈の方法の特性」を指示している。「われわれはジグザグに行きつ戻りつしなければならない12」(VI,S.59)
 ここですでにはっきりするのは、歴史的なものの規定という問題は、さしあたり、現象学がはじめから捉えているように、経験の規定の問題にほかならない、ということである。[p.79]

* 『ワードマップ』のなかみとは関係がある。
** ママ