見るものから働くものへ:黒田『知識と行為』

昼食。クチヨセ続行中。序章。

知識と行為 (1983年)

知識と行為 (1983年)

ムーア命題と世界像命題

  • 私の身体は存在する。
  • [..]
  • 大地は私の誕生するはるか以前から存在していた...

 ムーアが挙げているのは、私自身も疑ったことのない真理である。[..]
 [..] 地球の存在に関するムーアの命題は、歴史的研究によって真偽をさだめられる経験命題とは違った身分のもので、そもそも歴史に属する命題の真偽を問うためには無条件に受け入れなければならぬ探求の基本的なルールである13。いわばアプリオリな原理であるこの命題、というよりこの 規則 の確かさは、当の規則にしたがっていとなまれる探究 の過程と成果のすべてによって保証される確かさなのである。ウィトゲンシュタインの警喩を借りれば、それはちょうど回っているコマの心棒を不動にしているのがコマの運動そのものであるのと同じである15
 ムーアの問題提起と、それを受けたウィトゲンシュタインの晩年の思索について知っているひとの眼には、私の要約もすでに陳腐と映るかもしれない。しかしここには「知識」のパラダイムの根本的な変換にも通じるような思索のモティーフが浮かび出ている。それはまず、

  • ある命題を確実とし、知識の表現とするのは、
    命題の外面的な形式でもなく、また一定の存在領域に対応付けられた内容上の特殊性──たとえば感覚予見の記述であるとか情意体験の表明であるとか──でもなく、
    経験的な探究のなかでその命題にあてがわれている位置と役割なのだ

という洞察である。われわれが「誤りえぬもの」として受け入れているのは経験的な知識や信念の体系的枠組みをさだめるような命題であって、その体系のなかで真偽を問われるふつうの経験命題とは役割を異にする。

もっとも、はじめは観察の主題であった事実が以後の観察や仮説設定の足場になったり、観察や実験のテストを受けるべき仮設として提出された命題がやがてはある探究領域の基本的法則にくみいれられたり、というように、一般的には探究の規則と、探究の対象や成果を述べるふつうの命題との区別はたぶんに相対的・流動的である。しかし一方、

ムーアが書き出した諸命題は、形式的な外見や、対象であるものの(物理的な)存在性格に関してはふつうの経験命題と全く異ならないにもかかわらず、実質はもっぱら規則の表明(ヴィトゲンシュタインのいわゆる文法的記述)であって、探究の対象や成果の記述として用いられることがない、ことさらその問われる情況を想像できない、という点で特殊である。それらはいわばわれわれの 世界像 の枠組にあたるものを表現しており、その意味では論理学の命題にも順ずる非経験的な性格の命題ということができる16。そうであればこそ、ムーアやヴィトゲンシュタインのこれに関する考察が、命題の確かさ、疑いのなさは 探究という一連の行為のなかで命題が果たす役割に由来する、という明確な認識につながったのである。 [p.17-18]

そして行為。

われわれが道具を用いて何か作業をしているとき、手の中の道具の存在を疑うことはしない。ドアを開けようとしているときドアや取っ手の存在を疑いはしない。火を消そうとしているとき、火に触れれば熱い、火傷をする、ということを疑いはしない。疑うときには、われわれはすでにその行為のそとに身をおいている。だが疑うこともひとつの行為であり、探究の始めであって、それ自体何か確かなものをよりどころにしなければ成り立つはずのない行為である。
 [..]
 [..] ひとによっては根拠追求の営みをさらに引き延ばそうと企てるかもしれない。たとえば、私が感じているのは本当に冷たさの感覚なのか、私がこれ を「冷たい」と言い表す根拠は何なのか、と。こう問うときに、われわれは冷たさの「感覚与件」なるものを心の中に想定せずにはいられなくなる。そして、いま意識に現前している この 感覚は私が「冷たい」という言葉を(いわゆる直示の手続きで)習ったときに [..] 体験した漢字と同じだ、だからこれは本当の冷たさだ、と納得しようとするだろう。しかしそれならば、過去にそういった情況で体験した感覚が本当の冷たさだということをまず確かめねばならず、その場面でまた同じことが繰り返されるだけだろう。感覚与件という擬似対象を設定することによっては、根拠づけの作業は一歩も先に進まない。[..] もともと、「これが冷たさの感覚だとどうして知っているのか」という問いに対し、さらに事実の根拠を挙げて答えることは不可能であろう。[..] いまの体験を「冷たい」という言葉で表現すること、すでに習得した言語規則をこの状況に適用しているということ、それが現在の降雨に関する私の知識の支えであり、その根底に達するとき、もはや正当化の道は尽きるのである。
 われわれはここで、「感覚与件」という想定の不毛性をあらためて確認したが、同時にまた、「知る」と「見る」との同一視、というあの根深い先入見からもほぼ完全に開放されたと思う。知の究極の支えは、感覚的風景を心の中に見ることではなく、規則にしたがって言葉を用いること、すなわち行為であろう。ヴィトゲンシュタインも絶筆『確実性の問題』でこう書いている。

証拠を基礎づけ、正当化する作業はどこかで終わる。──しかし、ある命題が端的に真として直感されることがその終点ではない。すなわち言語ゲームの根底になっているのはある種の視覚ではなく、われわれのいとなむ行為こそそれなのである。[『ウィトゲンシュタイン全集 9 確実性の問題/断片』204節]

[p.19-21]