というわけで改めまして。
『制度としての基本権』における「精神科学的なるもの」への批判について確認してみますよ。
Grundrechte als Institution: Ein Beitrag zur politischen Soziologie
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第3章「基本権の自然法的基礎づけと精神科学的基礎づけ」。
スメントの「精神科学的」基本権論への批判は、まぁわかりやすい。〈イデアールなもの〉と〈レアールなもの〉との「統合」*──そして、〈客観化されたもの〉としての法──というビジョンは、──類型論は与えても──分化した概念は与えない(したがって、分化した現実にも対応できない)、云々。
それはそれとして。その批判に続けて述べられるこの↓箇所が重要である。
すなわち、こうした↑欠点を持ちながらも、適切な変更を加えれば、「精神科学的」な議論は、システム理論に接続できる*、とルーマンは考えているのである**:
**ということは。ルーマンの研究経歴上においては「精神科学的伝統のもとから出発した上で、そこからどのように離脱できるか を考えた」という順序になっていたに違いないわけであるが。常識的に考えて。
しかし以上すべてにもかかわらず、統合理論は 基本権の精神史的ドグマ分析の背景を確保するものとして細々と露命をつなぐ運命を受忍しなければならないようなものではない。それを所与の価値秩序に仕えるものとし、自然法の変種として退けることは不当であろう。統合とは憲法的体制を指しているのであって、意味の崇敬を指しているわけではない。スメントは中心的な国家形成的現象をみていた。この現象は、体験の地平から情報的行為態度の地平へと移転せしめられるなら、
それを記述するだけではなく、問題解決におけるその機能を行為システムにおいて明確にすべく努めるならより正確に分析可能なものとなりうるのである。
統合はコミュニケーションなくしては思考不可能というだけではない。統合とは情報的な出来事に他ならず、社会的コンタクトにおける意味のコミュニケーションを通してのシステムの構成なのである。[...] コミュニケーション過程の統合的機能は次の点に存する。すなわち、その伝達意味が直接間接に行為システムを指示する という点であり、言語的あるいは非言語的な 表現行為態度 のうちに一定の行為システムの存在が含意され表出される結果、コミュニケーションの交換において、どの程度自覚されているかはともかくとして、前提されているものの理解が──システムの構成が──同時に行われるという点である。
このような概念的基礎の上では、[スメントの謂う]統合過程は、コミュニケーションの一般化として捉えられる。政治的空間における行為態度の 表現的・意味媒介的・情報的アスペクトは、自律的な政治システムの文化的形成によって 同時に「一般化」され、それゆえ [...] 特殊的で感情的な集団的拘束から解放され、システムとしての政治システムへと関わることになる。 [p.71-72]
「表現-行為」! ──→〈体験/表現/理解〉!