条件プログラムと目的プログラム

ひきつづき。
1969年の著作。第II部最終章(=第9章)「プログラム構造と責任」。

手続を通しての正統化

手続を通しての正統化

あとこれ:

  • Niklas Luhmann (1964) Lob der Routine, Verwaltungsarchiv 55 (1964), pp. 1-33 → Politische Planung, Westdeutscher Verlag, 1971, pp. 113-142 
    ニクラス・ルーマン「ルーティン礼讃」[三谷武司訳:2006年6月9日版]
この論文で用いられている表現は、〈ルーティンプログラム/目的プログラム〉。


■メモ

  • どちらの文献も、議論の出発点は、「組織の構造」と「決定プログラム構造」の違い。
=意思決定に対する、「組織の構造」と「決定プログラム」それぞれからの貢献の違い。
  • 1969の注125 では、このプログラム類型にかんする先行文献として、これが挙がっている:
    • Torstein Eckhoff & Knut Dahl Jacobsen: Rationality and Responsibility in Administrative and Juridical Dicisionmaking, Kopenhagen 1960

[裁判官のおこなう或る決定は、]政治的に不都合であるかも知れず、インフレに対して好ましくない影響を与えるかも知れず、階級闘争を先鋭化させるかも知れず、唯一正しい宗教が宣布されることを妨げるかも知れず、人口の密集した産業の中心地における健全な生活態度についての最新の認識と矛盾するかも知れない。その場合、問題は法律が変更されねばならないということにある。裁判官は法律にのみ従うからである。裁判官の不偏性の原理の背後には、かくして、責任を限定し、オルタナティブを排除し、批判を除去し、もって決定過程における複雑性の縮減を支えることの不可避性が存在している。そしてほかの[裁判]手続関係者の運不運もそこで同時に作用する。
 裁判官の中立性の表出は、裁判官が過度に能動性を示す場合には危険に晒される134。[...] 結局のところ、あらゆる裁判官の調査活動はそれ自体ひとつの問題なのである。とりわけここでもう一度、[法]権利を条件プログラムに制限することの賢明さが明らかとなる。もし裁判官が社会的現実において一定の目的達成を求められるなら、彼は決して中立的に行為しえず、いずれにせよ中立的に決定を下すことはできない。当事者は、裁判官の目的実現という道具立ての中で、ほとんど不可避的に異なった位置かを有することになろうからである。自らの決定の結果に対して完全な責任を課されている裁判官は、決して中立的な立場をとる裁判官ではありえないだろう。結果をもとにした批判から裁判官を解放することは、それゆえかかる視野のもとでも、裁判手続きの本質的なモメントなのである。[1969: 訳p.141]

いかにも「どうぞご批判ください」と言わんばかりの主張でございますが。

『目的概念』3-1 のレジュメ:

主権国家とは、立法が目的に縛られない国家のことである。主権国家では実定法と倫理は分離しなければならないが、それによってルーティンプログラムと目的プログラムを分離することが可能になる。最後に、「法治国家」における実定法はイデオロギーや制度によって強調され、それによって各審級が目的プログラムによることなく、それぞれルーティンプログラムを設計することが可能になる。こうして法治国家と社会国家の間にうまくバランスがとれるようになり、ルーティンプログラムと目的プログラムの絶妙な協働に従って行政が行われるようになるのである。ただし、これは西洋型の国家に限った話である。[1964: 三谷訳 31]



ところで目下の議論にはまったく関係ないが、「ルーティン」論文に、「Führungswechsels」という言葉が──ゲーレンの言葉として──出ていた(15段落目)。

人間―その本性および自然界における位置 (叢書・ウニベルシタス)

人間―その本性および自然界における位置 (叢書・ウニベルシタス)

人間―その本性および世界における位置 (1985年) (叢書・ウニベルシタス)

人間―その本性および世界における位置 (1985年) (叢書・ウニベルシタス)

いっしょに「振動Oszillieren」も出てくる(16段落目)。てことはつまり、この言葉は別に、特別にスペ■サー=ブ■ウン的術語として用いられているわけではない、ということですよ。曰く:

この種の[主導権交代が可能になっているようなシステムにおける]相互選択性の調整が機能するためには、あらかじめ一定の構造的前提がなければならない。まずある情報に基づいてコミュニケイション可能性の中から一つを選び出し、つぎにそれに基づいて別の情報を求め、そうやって得られた情報に基づいて別のコミュニケイション可能性を求める……というやり方では、いつまでたっても情報処理が終わらず意味がない。情報処理は振動し、出発点からどこまでも遠ざかってしまう。だから変域が一定の範囲内に限定されている必要がある。この変域を定義することが、決定プログラムの機能である。それによってシステムは一定の境界を与えられ、個体としての様相を呈するようになる。[16:三谷訳]

ここの話では、「交代」するのは〈input[=起動情報]準拠/output[=出力情報*]準拠〉。

* 実際に用いられている言葉は「コミュニケーション」。


ちなみに「決定プログラム」という語自体はハーバート・サイモンのもの。