涜書:元森絵里子『「子ども」語りの社会学』

二周目。ヘビーローテに入りました。
虹理論という語をすごく久々に見た。

子ども語りの社会学

子ども語りの社会学

      • はしがき
    • 序 章 「子ども」の歴史性と社会性――本書の視角と方法
      • 1 「子ども」の歴史性――社会史の知見から
      • 2 「子ども」の社会性――教育学と社会学の陥穽
      • 3 ルーマンの教育システム論
      • 4 近現代日本の「子ども」を見る視角――本書の方法論
      • 5 本書の構成
  • 第I部 「子ども」語りの成立  [戦前期:自己準拠的な教育領域の成立]
    • 第一章 「子ども」の発見・教育の自律――戦前期綴方教育論の分析から
      • 1 「子ども」の前史
      • 2 教育制度の整備と「子ども」の成立
      • 3 「子ども」と配慮の誕生
      • 4 「子ども」の教育の自律化
    • 第二章 「子ども」語りの布置――社会の鍵としての「子ども」とその教育
      • 1 「子ども」・教育と社会
      • 2 「子ども/大人」の区分と近代日本の勃興
      • 3 教育の社会的機能の自明化
      • 4 「子ども」語りの布置
      • 5 総力戦と「子ども」語り
  • 第II部 「子ども」語りの戦後  [戦後〜高度成長期まで: ]
    • 第三章 「子ども」という希望から不安へ――戦後における「子ども」語りの変容とその機制
      • 1 敗戦と「子ども」語り
      • 2 「子ども」・教育問題の変化
      • 3 戦後日本における「子ども」語りの興隆と揺らぎ
      • 4 「子ども」語りの変容とその機制
    • 第四章 「子ども」であること・「子ども」を語ること――中学校生徒会誌の分析から
      • 1 「子ども」の語りへの着目
      • 2 生徒会誌という資料
      • 3 「子ども」から見た「子ども」・学校・社会
      • 4 「子ども」から見た「子ども」の世界
      • 5 自律化する「子ども」集団――「子ども」語りの変容とその機制・再考
      • 6 「子ども」を語るとはいかなることか
  • 第III部 「子ども」語りの現在
    • 第五章 「子ども」語りの揺らぎ・「子ども」の現在――中学生新聞投書欄の分析から
      • 1 「子ども」語りの現在
      • 2 中学生新聞投書欄という資料
      • 3 「子ども」から見た「子ども」の揺らぎ
      • 4 「子ども」の揺らぎと「自分」という論理
      • 5 「子ども」を語り続ける機制
    • 第六章 現代の「子ども」語り――一事例としてのプレーパーク
      • 1 「子ども」の捉え難さをめぐる実践
      • 2 プレーパークという遊び場
      • 3 プレーパークの「子ども」語り
      • 4 「子ども/大人」の差異の消せなさの現代的機制
      • 5 「子ども」をいかに語るかという問題へ
    • 終 章 「子ども」語りをめぐって――本書の知見とインプリケーション
      • 1 「子ども」語りの歴史と現在
      • 2 「社会」をめぐる問いへ
    • あとがき
http://www.keisoshobo.co.jp/book/b50731.html



このあたり↓の話、詰めていけばいろいろと面白そうなんですが、如何せん一子相伝的な「全体性産業」的アレで 議論が見通せません.....。

第III部 「子ども」語りの現在 - 第六章 現代の「子ども」語り――一事例としてのプレーパーク
4 「子ども/大人」の差異の消せなさの現代的機制

(3) モダンの諸制度と「子ども」の現在

[...]
 機能分化した近代社会において、経済、法、政治など、「契約主体」「責任主体」というモダンの擬制擬制として維持しなくてはならない制度領域がある。そして、そのことは、それを表裏一体に、そういった責任主体たりえない「子ども」を要請すると考えられる。すなわり、身も蓋もない結論であるが、現代において、「子ども/大人」の区分は、もはや「子ども」の処遇に関する領域それ自体ではなく、経済(市場)、法、政治(行政国家)などの近代社会を支える諸制度に組み込まれたものとして、消しがたく残り続けるのである。そうであるならば、教育などの 「子ども」を それらの領域から保護して「非主体」に留め置く──さらに言えば、同時に責任主体としての「大人」にする──領域は、その陰画としてのみ要請されると考えられる。
 「子ども」と「大人」の非対称的な関係性は、現在、それがほかの制度領域と連関した擬制であるからこそ 消すことが出来ない。[p.216]

第六章 - 5 「子ども」をいかに語るかという問題へ

(1) プレーパークの語りの限界と可能性

縦横無尽に〈局所/全体〉図式ですヽ( ・∀・)ノ

 さらに興味深いことに、プレーパークは、〈自由〉な「大人」たちの先に、新たな人と人のつながりのあり方を語っている。コーディネーター的な立場にいる人は、ときに責任を引き受けながら〈自由〉であり続ける「大人」の像の延長線上に、プレーパークが人や地域のつながりに持つ意義を、次のように語る。

[...]

これは「子ども」や その教育に実現・改良を期待されるような、全域的で全体的な社会 とは異なった、つながりのイメージである。もちろん、関係者も自覚しているとおり、これはユートピアである。〈自由〉な存在であることを万人に求めた場合、[...] そのこと自体が〈自由〉ではない息苦しいものとなる。しかし、そのようなユートピアユートピアとして目指し続けること自体に、意味がないとは言い切れない
 近代社会の擬制を受け入れた上で、局所でそれを失効させ、また失効した関係を自らも享受する「大人」たち──。そこで成長する「子ども」たち──。新たな人と人のつながりの構想──。少なくとも、「子ども」と向き合い続けねばならない現時点において、それを必要としている「ことも」や「大人」がいて、やりたいと思う「大人」がいる限りにおいて、プレーパークは、可能性を見守られるに値する局所のように思われる。[p.218-219]

話つながってNEEEEEEEーーー!

「子ども語り」から「ユートピア語り」へ!!!


やってないこと より やってること のほうをみたほうが いいのではあるまいか。