宮嶋秀光(2020)「ルーマンのシステム論における人間学批判:フンボルト人間学の研究(2)」

https://contractio.hateblo.jp/entry/20210506/p0 再読。
ルーマン(1981)「教育科学における理論交代」(ISBN:4588009621)の解説論文。

はじめに

[16-17]

その際,先に触れたシュプランガーの研究からも判るように,ドイツの教育学,とりわけ「精神科学的教育学」と総称される教育研究には,「新人文主義」が強く影響を残している点に留意する必要がある。というのも,後述するように,ルーマンにとって現代の教育学という「科学システム」の閉塞状況は,それが「新人文主義」を採用したことの歴史的帰結と解されているからである。とすれば,ルーマンにとって「新人文主義」の代表者の一人であるフンボルトも無関係ではなくなる。というよりも,ルーマンの論述の中で「新人文主義」の代表として繰り返し批判的に言及されるのは,ゲーテでもシラーでもなく,何故かフンボルトなのである。
 のみならず,ルーマンフンボルトを「哲学的人間学」の創始者ともみなしている(Luhmann 1993a S. 210―211)。その正否はともかく,ルーマンが理論的な枠組みとして採用している先述の「階層的分化」から「機能的分化」への転換において,近代の人間学が果たした役割は,彼にとって重要であり,そうした歴史的変遷の文脈の中で,フンボルトも言及されるのである。しかも,上に触れた近代の「機能分化」は,「まず中世の後期に始まり,おおよそ18世紀の末頃に,もはやほとんど引き返せない状態へと達する」(Luhmann 1993a S. 27)という。実に,この18世紀の末とは,若きフンボルトが執筆活動を開始し,言論界に一定の影響を及ぼすようになった時期1に他ならないのである。この点でも,ルーマンにとってフンボルトは重要な検討対象なのである。

1 具体的に,当時フンボルトの論文で公になったものとしては,シラー編集の『ホーレン』誌に1794年から95年にかけて掲載された以下の三論考を上げることができる。すなわち,「両性の区別とその有機的自然に及ぼす影響について」(1794),「男性形式と女性形式」(1795a),「比較人間学の構想」である(1795b)。但し,実際にルーマンが頻繁に引用するのは,1793年に執筆されたと推測されている「人間形成の理論」(1793)という未刊行の草稿である。これらの文献だけで,当時の人間学の代表者として,フンボルトを優先的に取り上げることには疑問もある。しかし,若きフンボルトは,この時期にシラーやゲーテをはじめ当時の多くの知識人と交流があったことも確かである。それを踏まえれば,当時の有力な思潮の例としてルーマンが引用することには,妥当な面もあると思われる。
 本稿では,社会が近代的な「機能分化」へと転換していく歴史的なプロセスにおいて,「人間学」の果たした役割に関するルーマンの論述に注目し,そこにおけるルーマンによるフンボルト人間学の批判を検討してみたい。
 ルーマンの「社会システム」論にとって,「人間学」は大きく分けて三つの論点で取り上げられている。すなわち

  • 第一に,ルーマンが批判する社会学の方法論の背後にある「ヒューマニズム人間学」として取り上げられる。
  • 第二に,先に触れた近代社会へと向かう「システム分化」の転換に対応して,古い意味ないし概念のまとまり―それを彼は「ゼマンティク」(Sematik)と呼ぶ―が,近代的な「ゼマンティク」へと変化していく過程において,「近代初期の人間学」の果たした役割が論じられている。
  • 第三は,この歴史的な経緯を経て,1800 年前後に成立した「哲学的人間学」に関する批判的な言及である。
    • この最後のテーマは,「科学システム」における理論交替の事例として,教育学における「汎愛派」から「新人文主義」への転換に関連して取り上げられる問題であるが,この転換は,ルーマンによって第一に挙げた「ヒューマニズム人間学」の発端とも見なされている。そして,この発端に立つ典型としてフンボルトが標的となるのである。

 本稿では,ルーマンが取り組む上の三つの人間学に関わる問題圏を順次検討した上で,第三の問題圏において,フンボルトがどのように評価されるのかを明らかにしたい。ルーマンによるフンボルト批判の当否そのものは,後続の論考に譲りたいが,少なくとも本稿では,ルーマンが指摘しているフンボルト人間学の難点を明らかにしてみたい。

第二章 近代初期の人間学の歴史的役割

(3)近代初期の人間学とその歴史的な役割

 さて,ルーマンによれば,「近代初期の人間学」は身分階層に対応する古い「ゼマンティク」を越えて近代的な「ゼマンティク」へと向かう転換過程において,二つの重要な役割を果たしていたという。すなわち,「我々としては,『近代初期の人間学』と名づける思想の複合体を,構造的にも,また歴史的にも,分化包摂に関係づけたい」という(a.a.O., S. 172)。

基本ストーリー [25]

「近代初期の人間学」による人間把握は必ずしも一貫したものではない。17世紀の中葉から18世紀半ばという短期間に,人間の理解は

  • [1] 「静的」(statisch)なものから,
  • [2] 「不安」(unruhig)なもの,さらには
  • [3] 「能動的」(aktiv)なものへと変化し,

それに平行する形で,

  • [a] 普遍の存在と移ろいやすい存在という図式,つまり,それまで自然,社会,人間を理解する上で適用された「実体/偶有という宗教的に解釈されうるモデル」に対して,
  • [b] 「自己参照の原理」

がとって代わったという(Luhmann 1993a S. 172―173)。ただ,その際,人間学は一度に神学的な世界解釈を退けたのではない。むしろ,神学的な思考法を一部は利用しつつ,最終的には,それに人間学的な思考法が入れ替わったのである3

3 この過程は,ルーマン的な言い方をすれば,神学の Attribution に人間学のそれが入れ替わったということでもある。Attribution は,名詞に一定の修飾語をつけるという意味もあるように,観察において対象の性質を限定していく作業に用いられ,大まかにいえば世界解釈の基礎にあたるものと考えられる。

第三章 「人間中心主義」的な人間学とその諸問題

(2)汎愛派から新人文主義への理論交替

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 「人間学」(anthroplogium ないし anthropologia)は,16世紀以降に登場する新参の学問名称とされるが(Sombart 1938),それは,上述の歴史的役割を果たして以降,もちろん消滅したのではない。その後,独自の発展を遂げていく人間学を,ルーマンは「より狭い意味での人間学的研究」(a.a.O., S. 205),あるいは端的に「哲学的人間学」(a.a.O., S. 211)と呼んでいるが,実はこの人間学が,先に見た「近代初期の人間学」とは区別され,「新人文主義」,特にフンボルトの所見と結びつけられて理解されているのである。そしてルーマンは,この新しい人間学を教育学の理論交替,すなわち「汎愛派」(Philanthropinismus)から「新人文主義」(Neuhumanismus)への転換に即して検討するのである。そこで,この理論交替がいかなるものであったのか,という点から確認することにしよう。

[29]

  • 一般に「汎愛派」は,17世紀のコメニウスらに代表される百科全書的な知識を教授しようとする啓蒙主義の系譜に立ちながら,同時にそのために,ルソーによる「自然主義的方法」を導入しようとしたという二つの側面から理解される(Monroe 1935)。従って「汎愛派」は,新理論の提案というよりは,それ以前の教育論を組み合わせた実践の提唱であり,その具体的な教育の試みを通じて,後世に強い影響を与えたという点については議論

の余地がない。それ故,「汎愛派は,その時代の潮流に従って,自分たちを,実用的,経験的,反形而上学的,つまりは人間の利益と幸福を顧慮するものとして描いている」(1993b
S. 128)というルーマンの所見は標準的である。

  • しかし,この理論交替が,クーン(Th. Kuhn)のいう「パラダイム転換」ないし「科学革命」に匹敵するというルーマンの見解は,ふつうの教育学の見解からすれば,非常にユニークである(a.a.O., S. 121)。
    • そもそも,上に触れたモンローの古典的な概説書では,フンボルト学制改革が簡単に言及されるだけで,そもそも「新人文主義」の教育思想など取り上げられていない。もちろん,ドイツでは「新人文主義」は無視できない教育思潮ではあるが,それを「汎愛派」からの「パラダイム転換」とまでみなすことはない。
      • 例えば,ブレットナーは「汎愛派」の試みは古い「杓子定規」の教育を改革する歩みの始まりであり,「まもなくそれに続く新人文主義が,その改革への意志を受け入れ,さらに成し遂げていく」ことになると評している(Blättner 1980 S. 94)。要するに,従来の古典的な解釈では,「汎愛派」から「新人文主義」への理論交替は,むろん単純な連続的移行ではないにしても,少なくとも「パラダイム転換」などという劇的なものとは解されていないのである4

4 その点では,以降に見るルーマンの所論は,従来の教育学や教育史研究に向けられた批判でもある。教育学は概して人間学を自らの当然の前提と見なしがちであるが,この転換が人間学的な思考の登場する「パラダイム転換」であるならば,「汎愛派」をはじめ,それ以前の教育論には人間学など必然的な前提などではなかったということになろう。

[30]

 この点に関して,ルーマンが指摘するのはカント哲学の影響の皮相さである。すなわち,「新人文主義」への理論交替は,「カント哲学の理論的な諸問題に手を突っ込むようなものでは何らなかった」(Luhmann 1993b S. 123)のであり,カント哲学に頼ることで「成功したのは,理論への信頼を固めること,それ故また古い思想財を新しいものであるかのようにみせることであった」(a.a.O., S. 126)という。そこで試みられたのは,例えば,カント哲学に依拠した教育学の理論的構築の試みのようなものではなく,むしろ,カント哲学への信用を利用して,その哲学の部分的な帰結や,その概括的な主張を援用することで,教育学の学問としての正当性を訴える試みにすぎないという。従って,この理論交替の前提はカント哲学以外にありえなかったなどということではなく,むしろそれが援用されたのは「偶然」にすぎないとすらルーマンはいうのである(a.a.O., S. 177)。
 しかし,そうはいってもカント哲学が一定の影響を及ぼしたのも事実である。ところが,ルーマンによれば,それすら十分にカント哲学を踏まえたものとはいえないという。この点について,〈教育と道徳との関係〉の問題,並びに〈個人の同一性〉の問題を取り上げて,簡単に見てみよう。また,それを通じて「新人文主義」の教育学,そして,その継承たる「精神科学的教育学」が直面することになる三つの理論的隘路にも触れることにする。

(3)新人文主義人間学

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 以上のように,ルーマンの解釈によれば,「汎愛派」から「新人文主義」への転換にとって,カント哲学は否定的な意味で決定的な役割を果たしたことになる。そして実は,こうした意味でカント哲学を最終的に吸収し尽くした所見こそ,フンボルトにおける「個人」であるとルーマンはみなしている。この「個人」は,「汎愛派」の教授論に関連してみたように,その人間の具体的な職業や境遇に応じた有益性が問題にされるような「個人」ではない。むしろ反対に,それは「自分自身を人間へと一般化させていくことで,その具体的なメルクマールを獲得する個人である」という。換言すれば,この「個人」は,教育の対象としての普遍的な枠組でありながら,しかしそれ自体は,普遍的な「人間性」へと自らを接近させる過程で,はじめて具体な内容を獲得する「完全に伝記的で個別化された人間」のことである(a.a.O., S. 146)。そのような意味での「個人」の完成が,教育の目標とされるというのである。そうであるから,ルーマンは「新人文主義」の基本的な教育規定として,次のようなフンボルトの『人間形成の理論』(1793)における主張を繰り返し引用するのである。すなわち,
人間の「究極の課題」は,「われわれの自我を世界と結合させることを通じて,この上なく普遍的で,活発かつ自由な相互作用を生じさせることで,われわれの人格の中にある人間性という概念に……可能な限りの内実を付与すること」である,と(Humboldt 1793 S. 283; Luhmann 1993b S. 146f.; Luhamnn 2018 S. 121)。
ルーマンに従えば,このような「新人文主義」の教育論の登場によって,ドイツの教育学は,先に見た三つの隘路に陥いることが不可避となっていくのである。

さいごに