Niklas Luhmann "The Direction of Evolution"

「往年のスタァ達」大集合の論文集id:contractio:20040114#p6がようやく届く。
 で、きしょいタイトルのルーマン論文だが、どんなやばいことをノタマちゃってくれてるかとハラハラしながら読んだところ、心配したようなことはなく一安心というか、なぜわしが心配せねばならんのか。

  • Niklas Luhmann "The Direction of Evolution" in Hans Haferkamp & Neil J. Smelser (ed.), Social Change and Modernity, Univ of California Pr, 1992/04,

Social Change and Modernity

Social Change and Modernity


2部構成。
 第1部は、「進化」という語の、めちゃめちゃラフな──というか、ルーマンの書いたもので「ラフじゃない記述」というのに、出会ったことはないが──観念史レジュメみたいなやつ。かなり「なんちゃって思想史」度高し。近代における「社会の時間的記述」の3つのやりかた──「進歩」という観念によるもの/分化と複雑性の増大という構造的タームによるもの/非蓋然性improbabilityの増大によるもの──について(各語における「時間の/歴史の/進化の-方向」が何を含意していたかも含めて)確認してみましょう的な走り書き。

 第2部は「進化と非蓋然性」。「進化とはありそうにないこと=非蓋然性が、高度に構造化されたかたちで保存されることだ」とか「複雑性とは、要素の 高度に選択的な編成のことだ」とかなんとか、“それを言ってなんになる?”というような話をちらほらしたあとで、それを再度──例によって──観察の話に持ち込む:「こうした非蓋然性とは、観察と記述の事柄(=様相化)なのであ」って、「[自己記述する]社会は、[記述されているその・当の社会が]何であるかを知ることはできず、ただ、それが記述しているものを知ること・なぜ特定の記述を選好するのかを知ることができるだけである」云々、と。
結論(?) 。「<より蓋然的な状態>から<(前の状態に基づいた)より非蓋然的な状態>へ」の状態遷移という仕方で「時間の方向」について記述することは、

  1. we may or may not want to live in, maintain, and develop the improbable state we find ourselves in という意味で「進歩」の観念を含んでいる
  2. 機能分化というものは──環節的分化や階層的分化よりも、よりポジティヴな面もよりネガティヴな面もともなった──極めてありそうにない状態だ、という意味で「複雑性と分化」という観念も含んでいる

のであり、そして、

  • The new framework of teporal description encompasses the old ones. it also reevaluates them and provides conceptual space for including actual feelings of insecurity and risk, distrust in optimizing strategies and good intentions, and unavoidable alienation.

云々。
‥‥‥だからどうした?

〔目次〕

クルター「コンティンジェントにしてアプリオリ」

クルター論文id:contractio:20031210#p5、4周回目。わけわからん。泣く。

  • Jeff Coulter, "Contingent and A Priori Structures in Sequential Analysis", HUMAN STUDIES, Vol. 6, No. 4, 361-376, October 1983.

H橋大院生のIGRSさんからありがたくも譲っていただいた私訳*1を参照させていただきつつ読んでいる事もあり「大まかな理解を得る」ということなら「それなりに」というところなのだが、少しまじめに・細かく読んでいこうとすると、とたんにあちこちで岩盤に突き当たる。
特にコンティンジェント概念は粉砕するのもやり過ごすのもひどく難しい。この概念は、こちらのほうにもそれなりの「こだわり」があるので(w、なおさらそうなのだが(たぶん)。この、かなり異様な論文タイトル、「ネタ元どこよ?」──言い換えると、ルーマンにとってのスコトゥスにあたるのは誰よ?──というのが前から気になっていたのだが、読んでみてわかったことには、なんとあろうことか(!)、クリプキ。 
クルターが参照しているのは、あの、「アプリオリであること」をめぐる、「経験的に知られる」と「経験的に知られなければならない」との区別なのだった:

They [some philosophers] think that if something belongs to the realm of a priori knowledge, it couldn't possibly be known empirically. This is just a mistake. Something may belong in the realm of such statements that can be known a priori but may still be known by particular people on the basis of experience. To give a really common sense example: anyone who has worked with a computing machine knows that the computing machine may give an answer to whether such and such a number is prime. No one has calculated or proved that the number is prime. We, then, if we believe that the number is prime, believe it on the basis of our knowledge of the laws of physics, the construction of the machine, and so on. We therefore do not believe this on the basis of purely a priori evidence. We believe it (if anything is a posteriori at all) on the basis of a priori evidence. Nevertheless, maybe this could be known a prioriby someone who made the requisite calculations. So "can be known a priori" doesn't mean "must be known a priori" (Kripke, 1972, p.261).[=クリプキ『名指しと必然性』:引用は、クルター論文 p.369]

この項つづく。

*1:正確にいうと。これは、社会学研究互助会(仮)MLにて ディスカッション用資料として メンバー向けに公開されているもの。

お買いもの

レトリック論、議論法をテーマとしたメーリングリスト論争研究MLで紹介されていた。トゥールミンの議論モデルを主題的に扱ったものだとのこと。

一緒にこんなイベントも紹介されてました。


本ワークショップでは,批判的思考,論理的思考に関して,関心を持つ研究者が集まり,討論を通して,その認知的基盤と教育実践について検討を行うことを目的とします。関心のある多くの方の参加をお待ちしています。
●日時 2004年2月8日(日) 10:00 - 17:45
●場所 京都大学百周年時計台記念館2F 国際交流ホールIII


ちなみにこのMLの管理人 都立大院の俊英 林原玲洋さんも、「社会学にとって議論モデルがどんな意味をもちうるか」を論じた次のような論文を書いてます。

「持ち合い」時代の終焉

http://www.j-plaza.or.jp/dir/Press/press-s.html


「株式の持ち合い構造と銀行保有株に関する実証と考察」
持ち合いは90年代以降着実に減少を続けている。上場企業による持ち合い比率(市場全体に対する持ち合い株の比率)は、株数ベースで1991年度の15.7%から2002年度には5.2%にまで低下した。特に、90年代終りからの解消ペースは急速である。[‥‥]もっとも、持ち合いの中心に位置する銀行の保有株リスクは、02年度でも自己資本の2割から3割に相当する。