id:contractio:20040714:1089775013
あかだ君のおかげで赤丸急上昇中。
享受・聴取に注目するというのは、制作・創作一辺倒、という態度に対するアンチにはなってるわけですが。
だけどこれ、上記エントリにも書いたように、しょせんは「役割理論」の枠内の話です。
で、──この点は論文にも(王子が)書いたけど──、コミュニケーションの〈受け手/送り手〉区別の枠の中で議論を進めている限りは、この限界は突破できないわけです。どうやったって。
てことは、逆にいうと、〈製作者/享受者〉、「役割理論」、「〈送り手/受け手〉区別に依拠した*コミュニケーションモデル」は、一つの同じやり方でひっくり返せる、ということでもあるわけです。「アートをめぐるコミュニケーション」を「システム論的に」扱う、とか、美学の「システム論的な」再記述というものは、そういう仕事じゃないといけません。
そして、ルーマニ屋のいまの議論水準では──そしてそもそもルーマンのコミュニケーションモデルでは──、この地点は突破できないです**。まず〈情報・伝達・理解〉というあの議論を捨てるところから始めないと♪
ちなみに、その注で(王子が)あげた文献はこの二つ:
- 西阪仰, 1992, 「参与フレームの身体的組織化」, 『社会学評論』43(1).
相互行為秩序と会話分析―「話し手」と「共‐成員性」をめぐる参加の組織化
- 作者: 串田秀也
- 出版社/メーカー: 世界思想社
- 発売日: 2006/12
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