受容美学再訪

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あかだ君のおかげで赤丸急上昇中。


享受・聴取に注目するというのは、制作・創作一辺倒、という態度に対するアンチにはなってるわけですが。
だけどこれ、上記エントリにも書いたように、しょせんは「役割理論」の枠内の話です。
で、──この点は論文にも(王子が)書いたけど──、コミュニケーションの〈受け手/送り手〉区別の枠の中で議論を進めている限りは、この限界は突破できないわけです。どうやったって。

だって、〈受け手/送り手〉って 参与役割だからさぁ。

 てことは、逆にいうと、〈製作者/享受者〉、「役割理論」、「〈送り手/受け手〉区別に依拠した*コミュニケーションモデル」は、一つの同じやり方でひっくり返せる、ということでもあるわけです。「アートをめぐるコミュニケーション」を「システム論的に」扱う、とか、美学の「システム論的な」再記述というものは、そういう仕事じゃないといけません。
 そして、ルーマニ屋のいまの議論水準では──そしてそもそもルーマンのコミュニケーションモデルでは──、この地点は突破できないです**。まず〈情報・伝達・理解〉というあの議論を捨てるところから始めないと♪

* これをひっくり返すのは、ある意味では簡単(形式的に言うだけならね)。システム論の格率【システムの作動を見ろ】を厳格に受け止めて、次の問いを立てればよい:「いかにしてシステムの作動は〈受け手/送り手〉をつくりだすか」
その問いを一旦たててみればすぐに気がつくことだけど、そもそもコミュニケーションを〈受け手/送り手〉のみで考えるのが間違ってる。だってコミュニケーションへの参与の仕方はもっといろいろあるんだからさ(下記文献参照)。 だから、この↑問いからして既に、上り終わったら捨ててよい梯子。
** こちらも理由は簡単。〈情報・伝達・理解〉なるコミュニケーションモデルを使うということはすでに、システム論の格率が──ルーマン自身も含め──クソ真面目には受け取られていないことを意味するから、です。それだけの話。


ちなみに、その注で(王子が)あげた文献はこの二つ:

  • 西阪仰, 1992, 「参与フレームの身体的組織化」, 『社会学評論』43(1).