『概念分析の社会学』合評会拾遺(その4)

ちと間が空いてしまい、次に何を書こうとしていたか見事に忘れてしまいましたが(^_^;;。
上山さんへのお返事、続きです。

  • 上山さんのレポート: id:ueyamakzk:20100112
  • 酒井その1: id:contractio:20100112#p2
  • 酒井その2: (01/17 早朝)id:contractio:20100113#p1
  • 上山さん1: (01/17)「《臨床》という言葉の周辺(メモ)」id:ueyamakzk:20100117
  • 上山さん2: (01/19)「場所の方法論」id:ueyamakzk:20100119
  • 酒井その3: id:contractio:20100114#p1
  • 上山さん: (01/21) 「「倫理的実務としての臨床」と、合意形成」 id:ueyamakzk:20100121
  • 上山さん: (01/23) id:ueyamakzk:20100123
  • 上山さん: 被差別ポジションからいかに語るか(1/6)id:ueyamakzk:20100124
  • 上山さん: 被差別ポジションからいかに語るか(2/6)id:ueyamakzk:20100125
  • 上山さん: 被差別ポジションからいかに語るか(3/6)id:ueyamakzk:20100126
  • 酒井その4: 当エントリ
  • 上山さん: 被差別ポジションからいかに語るか(4/6)id:ueyamakzk:20100131


上山さんと私には、ともに「学問にそれなりの関心をもっている非-研究者」という共通性があります。さしあたり その限りで、研究というものとの-非研究者としての-付き合い方 について、ある程度フラットな形で議論できてよいだろうという気はします。さらに、目下の話題に関していえば、「一方はEMを宣伝しようとしており、他方はEMについて知りたいと思っている」という いわば 相互鴨葱状況という素敵な事情もあります。ならば、酒井が上山さんの問いに直接に答える形で「エスノメソドロジーの解説」をしていけば、話はとてもスムースに進みそうなものです。が。
 どうもそんな感じはしませんね...。

a. 予備考察

 たとえば、上山さんにはこんな質問をいただいています。

  • エスノメソドロジーは、記述の結果が受け入れられない(価値を認められない)ことについては、どう受け止めるのでしょう。」 id:ueyamakzk:20100119#20100119fn18)

これに対しては、すぐに、こんな↓感じで回答を与えることができます:

  • 「分析をやり直すんじゃないですかね。」

 ・・・これは「正しい」はずだし、(ある意味)「本質的」な回答だろうとも 思うのですが、しかしこれだと あまり「ちゃんと」答えられた感じはしません。まぁ、あんまり「なんかいえた」気がしない。


 また別の例。上山さんいわく:

  • エスノメソドロジーでは、「研究者自身にとってもこの活動は臨床的意義を持ち得る」という、取り組み主体の構成プロセスのモチーフが見当たらない」id:ueyamakzk:20100119#p1)


 「取り組み主体の構成プロセス」という表現は難しいですが、当該エントリをみると、おおよそふつう「参加」と呼ばれている事柄に相当するように読めるので、主張のうちのエスノメソドロジーでは、***、取り組み主体の構成プロセスのモチーフが見当たらない」 という部分だけに限って言えば、とりあえず最初の一歩として こんな回答を与えてみることはできます:

  • 【Qp】「ひとは如何にして或る場所の参加者となるか」「ひとは如何にして或る場所の参加者であることをするのか」
    といった問いは、エスノメソドロジーにとってとても本質的な問いである。
 この問いは──「エスノメソドロジストが重要なものとして取り組んでいるものだ」というだけでなく──、ほかの様々なアプローチとの違いを論じる際にも重要なものではないかと、個人的には思っています。
 たとえば。エスノメソドロジー研究論文を遠くから眺めてみると、その少なからぬものが いわゆる「語用論的」研究と呼ばれているものによく似ていることに気づきます(もちろんこれは、EMが語用論を大いに参考にした、ということも大きいでしょう)。にもかかわらず、私が両者に はっきりとした違いを感じる点の一つが、「問い【Qp】に取り組んでいるかどうか」ということなのです。
 私はいわゆる語用論的研究についてまったく詳しくないので そんなに強い自信を持ってはいえないのですが、
それに、以下に書くことは、EM研究者たちには確認していない「酒井自身の印象」であり、したがってEM者たちが自己表明している事柄だというわけではないのですが、
通常、語用論においては、「話し手/聞き手」(〜「発信者/受信者」「送り手/受け手」)という役割カテゴリーは議論の前提になっていて、その上でたとえば「〈話し手の意図〉は、やりとりにおいてどんな役割を果たしているか」といったような議論がおこなわれているように見えます。そして、「やりとりはどのように行われるのか」という問いが、こうした形で問われている限りにおいては、語用論とEMは──遠くから見れば──そんなに著しく大きく異なった議論をしているようには見えません。ところが、EMは【Qp】も問うわけです。
今の場合だと、
  • 【Qp1】ひとは如何にしてあるやり取りの〈話し手〉となるか (〈話し手〉であることをするか)
といった問いがそれにあたります。ここでは同じ資格で・同じやり方で、「話し手/聞き手」のほかにも、「傍観者」とか「いっしょに居合わせているひと」などなどいったいろいろな ありかた(〜参加の仕方) について問うことが出来ます。
 こうした議論について 詳細な分析とともに まとまった見通しを与えてくれている研究として『相互行為秩序と会話分析―「話し手」と「共‐成員性」をめぐる参加の組織化』をあげておきます(ちなみに この本では、会話分析と語用論的研究との違いについての考察も行われています)。
 そしてこの問いを問うことが──これは私の個人的な見解ですが──、まさに「EM研究が 社会学的な 研究であること」を示すひとつの理由となっているように思います。
 そのことは、【Qp】の抽象度を様々に変えてみると はっきりするでしょう。たとえば:
  • ひとは如何にして〈患者〉であることをするのか。(〈患者〉になるか)
  • ひとは如何にして〈ふつうのひと〉であることをするのか。(〈ふつうのひと〉になるか)
  • ひとは如何にして〈誰か〉であることをするのか。(〈誰か〉になるか)
などなど、といった具合。
通りすがりに触れておくと、ルーマンの読者なら、ここで──悪名高い──「人間はコミュニケーションすることはできない。ただコミュニケーションだけがコミュニケートしうる」というテーゼを思い出してよいはずです。
 「人々は如何にしてコミュニケートするか」という問いを問うだけでなく、「人々は如何にしてコミュニケーションの参加者(〜Personen)になるのか」という問いを合わせて問う時には、コミュニケーション-のほうから/に即して-「人々」の登場の仕方を取り扱うことができるような議論の組み立て方が必要です。そして 上記のようなEMの問いの立て方は、ルーマンのこのテーゼの穏当なパラフレーズになっているように、私には思われます。
ということは、逆にいうと、こうした事情に対して ルーマンのような常軌を逸した表現を与える必要はない、ということをも意味するようには思いますが。


 では、この「回答」が、上山さんの上記主張への適切な応答になっているか、というと.....。ここでもやはり、あまりそんな感じがしません。

 これらの理由ははっきりしていて、問いや主張がどのようなものであるのかを、私があまりちゃんと把握できていないからでしょう。

b.

 ならば、問いや主張はどのようなものであるのかを把握することが、まずは目指されるべきです。というわけで、そうしましょう。

通りすがりにもう一点、「EMの解説」をして済ませるというわけにはいかない事情を書いておくと。
これには上記に書いたことよりも、もっと「強い」(かつシンプルな)理由が存在します。つまり、エスノメソドロジー研究には、単独で取り出してくることのできる「方法」とか「理論」は存在しない、というのがそれです。なので、
  • 「別のやり方」による必要な事業の定式化が、まだなされ切っていません。id:ueyamakzk:20100119#p1)
という注文には、そもそもベタに答えることができない(か、少なくとも、そのやり方ではあまり遠くまではいけない)のです。


 そこで上山さんのエントリーたちのほうを見てみよう、ということにしてみると。 .....これが..... すごく...... 難解です。
 一種独特の、ちょっと尋常じゃない難しさです。いったい どうしたことでしょうか。


 その理由を考えてみると。
 まず、言葉遣いの難しさを感じます。「臨床」「参加」「事業」「解離」etc.....、どれも独特の仕方で用いられていて、それが議論を素直にフォローしていくことを妨げます。それはまぁそうなのですが、しかしまた、難しい理由はそれだけにとどまらない感じもする。


 別の理由としては──私と上山さんとの違いについて考えてみて気がつくこととしては──、扱おうとしている事柄におけるステイクホルダーや場面の種類と数の多さ、ということもあるような気がしました。

「ひきこもり」のひとたちのほかに、少なくとも、医者や支援者や学者などなどが登場します。まぁこれは「私にとって」見慣れないものであるというだけで、社会学の研究者にとっては このくらいは ごくふつうの複雑さでありましょうが。
とはいうものの、これは「私と研究者たち」とのかかわり方が比較的シンプルなものかもしれない、というだけであって、私の普段の生活は、当然のことながら──おそらく上山さんや他のひとたちと同じくらいには──ふつうに複雑です(^_^)。

 そしてまた、場面が多い、というだけでなく、時間的形容の複雑さも感じます。それを端的に感じるのは「事前/事後」という表現の多用ですが、これが「何における」事前(事後)なのか、というのが いまのところよくわからない。

 などなど。


 というわけで、とりあえずはこのあたりの込み入った議論を もうちょっと見通しのよい・わけのわかるものにすることを、最初の目標にしてもよいだろう、という気がします。幸い、上山さんの側で、EMへのコンタクトポイントの可能性を示唆していただいていますし、上記の目標へ向けて移動しつつ、個別のコンタクトポイントを吟味していく、というのがよいでしょう。

c.

 こうした状況で、上山さんに個別の語用について敷衍していただくのはあまりよいやり方ではないでしょう。かといって、私のほうが上山語法に合わせる、というのもよろしくない。というわけで、さしあたって私としては、上山さんの語用を尊重しつつ、それも含めて検討するために、別の言葉を対置する形で私のエントリーを進めていこうと思います。

たとえば、上山さんは「参加」という言葉を、かなり負荷のかかったやりかたで用いています。私のほうでは、そのかわりに「参与」という言葉を使うことにします。

「参加」と「参与」は、どちらも participation の訳語として用いられることのある言葉ですし。以下のエントリで私は「参与」という言葉を、通常「参加」という言葉をつかうところで、その代わりに用います。

あわせて、気になる言葉をいくつかピックアップしてみると、こんなかんじです:

臨床不明。これが何を指しているかを明らかにすることは、おそらくは上記「目標」に直結しているでしょう。
事業 (ex. 言説事業)参与者たちが「や(ってい)ること」?
事前/事後いまのところ「何の」それなのか不明。(ex. id:ueyamakzk:20100123#p2)
メタ/オブジェクト〈語ること・語る側/語られること・語られる側〉などのこと?
(メタ/オブジェクトの)解離乖離ではなく解離なのはなぜ??
場所後述。(ex. id:ueyamakzk:20100119)
取り組み〔主体〕
参加「いつ・どこ」への?
当事者「語られる対象」「語りの対象」となっている人々のこと?


これらのうち「場所」についてだけ少し思うところを書いて、このエントリを終わりたいと思います。

c. 場所

これは、私のベタな質問に答えていただいたエントリーでした。上山さんいわく:

考えたり、つながったり、存在したりするときに、私たちは場所として、プロセスとして自分を構成する。 それは抽象的な空間(Raum)より前の、時間的に生きられる場所(Ort*2である。 抽象的空間としての Raum は、むしろ場所が構成される時の一つのスタイルであり、その結果的な構成物にあたる。

【引用1】

酒井さんがお尋ねの件で、私が「取り組み主体」と言ったのは、事業趣旨を提示できる “臨床家”*7であり、自分の苦しさに取り組む “患者” であり、その関係性が埋め込まれた環境の構成者全体でもあります。

【引用2】

このあたりを読む限りで私がまず思いついたのは、

  • 「場所」 → 社会学者のいう「社会的秩序」(or その下位概念としての「社会的システム」)
  • 「取り組み〔主体〕」 → (秩序への)「参与〔者〕」

というゆるい対応関係でした。

そして仮に、「取り組み〔主体〕」というのが「(社会秩序の)参与〔者〕」のことを言うのであれば──上のほうで述べたように── という主張に対しては、「いやいや、まさにそれはEMの中心的な問いだ」と返すことが出来ます。
ただし、略したところにある「研究者自身にとってもこの活動は臨床的意義を持ち得る」というフレーズは、手付かずに、かつかなり大きな謎のままにとどまりますが。

「場所」と「関係性が埋め込まれた環境」とが同じものを指すのであれば、この対応づけはなかなかよさそうに見えたのですが.... 


しかし、この対応付けは、このあたりで挫折します:

状況に埋め込まれた秩序が苦痛の形をしているなら、それを変えざるを得ません。 その秩序の生態は、「人々の Ethno-*15」方法というより、自分を含んで生きられる《場所の Ort- 》方法です*16

【引用3】

というのは、「自分を含んで生きられる社会的秩序(〜社会的システム)」を作り上げるやり方が、「人々の方法」と呼ばれているものなので。


そしてまた、このあたりには謎めいた記述が集中しています。たとえば、

  • 記述の《結果》をどうするかだけでなく、メンバー自身の《分節プロセス》にも光が当たるべき

などがそうです。たとえばこの主張については まず、「メンバー自身の《分節プロセス》」って「メンバーの方法」だよね? と思いますし、それから、なぜ「記述の結果」と「分節プロセス」を こんなふうに対照させるんだろう?という疑問も持ちます。

この二つは、「分節プロセス-を-記述する」という関係にあるんじゃないでしょうか。


おそらく。
ほかのエントリ(id:ueyamakzk:20100125 など)も勘案しつつ考えるに、これは、「ひきこもり」というカテゴリー*で語られる人々に(かつて?)属し、そのカテゴリーを自分に対しても使用する(or していた?)ひとでもある上山さんが、「ひきこもりについて語る人々」との間で取り結んできた関係と経験が複雑に反響した表現であろうかとは想像されます。それだけに/ということは、それらを分節化していく作業のみが、こうした主張を「わけのわかる」ものにしていくのだろう、とも思われるところです。

* イアン・ハッキングのいう「相互作用類」。


・・・どこから手をつけていけばよいのか、なかなか難しいですが、とりあえず上山さんが新しく書き始めたシリーズ(被差別ポジションからいかに語るか*)を追いかけながら、私も進んでいくのがよいのでしょうね。
 と、尻切れ感たっぷりな感じで、このエントリーは閉じることといたします。

* 「短期的なお返事は気になさらないでください」と書いていただいておりますが。
私のほうも、書くのは苦手ですが読むのはそうでもないので、どうぞ遠慮なくガンガン書いていただければとおもいます(^_^;;