上山さんからいただいたリプライのうち、このエントリでは、1/11 の合評会(id:contractio:20100111 / id:contractio:20100112)において私が行った報告に関わる点についてお答えします。
上山さんの曰く:
ここでは、エスノメソドロジー(EM)を「経験科学である」と主張されているのですが、酒井さんは合評会では、EM という事業に内在的な形で、ハイデガーを参照する提案をされていました。そこで、「これは科学である」という言明が、どういう意味を持つかがよく分かりません。
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20100211#p1
(それにしても、なぜハイデガーが…?)。
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20100211#p1
経験科学の目標は「対象に関する(真であり かつ 新規性のある)知見の獲得」である
という定式は、私の報告の中の「主題と結論」の中にしるしておいたものです(これは配布資料のほうにも掲載しておいたので、捨てていなければ確認していただけるでしょう)。
とはいえこのように定式化はしたものの──上山さんの見立てとは異なり──、私は、「科学」という言葉を それほどつよいこだわりをもって用いたわけではありません。(この言葉を使わないとあの報告はできなかった、などということはまったくありません。) そこで私は、単に、「経験科学」という言葉をかなり広いやり方で──「経験的研究」という言葉と互換的に──用いました。
しかしこれとは異なって、この言葉はまた 狭く、しかも(強い意味で)規範的な含意をもって──しばしば論争的なやり方で──用いられる場合もあります。私の報告は、そうした方向での議論をまったく意図していませんので、そうしたことが問題になるような場合は、
この言葉をすぐに「経験的研究」へと取り替えようと思います。(なので、以下ではそうします。)
この流れで ついでに述べておけば、
酒井さんは、《科学/非科学》の線引きにも強い意識を持っておられると思います。
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20100211#20100211fn3
と推察していただきましたが、これもそうではありません。
以上を前置きとして。
以下、冒頭に掲げた上山さんの疑問に、当日の報告を振り返りつつ、それを再定式するかたちでお応えしたいと思います。
合評会での私の報告の論題は、次の想定のもとに選択したものです。
- エスノメソドロジー研究の概略的な紹介が求められていること。
- オーディエンスの半数くらいは、哲学科に所属 or 関係する方たちであり、
哲学と社会科学とのコンタクトにも関心をもっているであろうこと。
そのうえで、私が実際におこなったのは、
- a. 社会諸科学のうちでも、特に社会学に対して 特有の難しさを与えていると考えられる研究課題を(一つだけ)紹介すること。
- b. ハイデガー(『存在と時間』)のテクストから、「エスノメソドロジストが、自分たちの研究方針の定式としても認めるであろうもの」を選んでストーリーをつくってみせること。
でした。
さて。
こうした私の報告論題に即して考えるに、上山さんの疑問は「この a と b との関係が不明確だ」というところに由来するのではないかと想像します。
「なぜ EM をわざわざ経験的研究だと主張するのか」といった質問には、私は答えようがありません。なぜなら、私は「わざわざ」そう主張しているわけではないからです(=「わざわざ」そう言わなくても、EMは経験的研究です)。まぁそれはさておき。
しかしこの点についてはごく簡単に答えることが出来ます。
a について述べたのは、簡単には、
- a' 社会学研究の難しさ(の少なくとも一つ)は、他の社会科学とは異なって、特定の・限定的な 制度的・ジャンル的基盤を持たない為に 対象領域や記述単位の確定が難しい、というところにある
ということでした[プロジェクタ用資料23-232]。
他方(b)、ハイデガーのテクストから取り出して来たのは、「基礎存在論は「対象・対象領域」をどのように取り出してくるのか」という論点に関わる箇所でした。
というわけで、「a と b はどう関係するのか」という問いに対しては──あっさりと──「準拠問題が共通なのだ」と答えることが出来ます。
つまり、私がやった作業は、
であり、そしてこの作業によって、
- 哲学者たちに、エスノメソドロジーへのコンタクト・ポイントを見つけてもらいやすくすること
- (『概念分析の社会学 ─ 社会的経験と人間の科学』を含む)個々のエスノメソドロジー諸研究にアクセスした際の──そうした個別研究が何を目指して行われているのかの──ガイドイメージを与えること
を目論んだ、というわけだったのでした。
以上で、簡単に答えられる限りでは、上山さんの疑問にお答えしました。ただし残念ながら、やはり これは上山さんが望んだ回答では無いだろう、とも推測しています。
というのは、私にはこれら↓の主張が何を述べているのかがわからなかったからです:
しかし EM の方法論が、単に《科学である》と言えば済むものでしかないなら、むしろ魅力を感じたのは勘違いだったかもしれません
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20100211#p1
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20100211#p1
- EM の正当性も、それが問題点を指摘される理由も、 一般理論を目指す既存社会学とは別のかたちで主張される《科学であること》 をめぐっている。
- 「それは科学と言えるのか」というよりも、 独自に主張された方法論そのものや、《科学であると自称すること》がもつ問題点 を引き受けなければならない。
これらについてはあらためて、上山さんに敷衍していただかねばなりません。
このエントリは以上です。
記述事業そのものの性質には、疑いが差し挟まれていません。 記述結果 に不適切さはあり得るが、記述方法 は文句なく正しい(科学である)ので、わざわざ主題化する必要もない――そういうことだと思います。 http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20100211#p1これは まったく違うと思います。
(とりあえずEMの話に議論を限定しますが)「研究のあり方自体の検討」(という反省的検討)を、個別の「研究実践(〜分析)」や「分析結果の(再)検討」と同じやり方で扱えるなら、研究は──首尾一貫した修正を伴いながら──進めていけます。この方針のもとでは、「反省的検討」を──「個々の分析結果の検討」と──「別建て」で用意する必要はありません。
もう少し広く「経験科学」全般を視野に入れた上で言っても、研究にとって必要なのは──「正しいことが分かっている決定的な基準」ではなくて──、「研究のあり方も含めて、研究をやりながら修正できる」というあり方です(=広い意味での「実証性」)。
「科学」──あるいは「研究」──に対する上山さんの疑念は、ここでは空回りしているように見えます。その疑念は もっと別の形を与えた上で検討する必要があるのではないでしょうか。