きっかけは、在仏の社会学研究者 磯直樹 id:naokimed 氏によるこのエントリである。
エスノメソドロジー (文献メモ) - 社会学徒の研究(?)日誌 (2010年10月16日)
社会学史が専門だと自称していますが、重要とされる社会学の業績の中でも、まともに読んだことのないものもあります。僕にとってその最たるものが、ガーフィンケルとエスノメソドロジーの諸研究です。どうしてこの分野を不勉強かというと、自分の研究環境において今まで一度も学ぶ必要性を感じたことがないからなのと、何年か前に「会話分析」の勉強をしてみたのですが、それがばかばかしくて(一部の)エスノメソドロジーに悪い印象を持つようになったからです。エスノメソドロジーの良質な部分は質的調査の方法に組み込まれているはずなので、あえて「エスノメソドロジー」の看板を掲げる意義があるのでしょうか。
フランスでは、エスノメソドロジーの影響は弱いです。一部の社会学者が部分的に受容しているという印象です。哲学の素養があって質的調査もできる人が(日本とは違い)フランスにはそれなりにいるので、エスノメソドロジーは物足りないのではないでしょうか。変な記号を使って「会話分析」なんてやっている人は、こちらでは皆無です。今後、広まることもないでしょう。
食わず嫌いはいけないと思うので、そのうちにエスノメソドロジーも勉強してみようと思います。何か得るものがあるといいのですが。
短いせいもあるだろうが、検討に値するものは含まれていない。「おぉアホがおる」とか「勉強して出直せやコラ」くらいの感想しか出てこない。しかしそれでも、二つのことが私の目をひいた。
- ひとつは、この──社会学におけるエスノメソドロジー免疫化のよくある──話法が登場する点:
質的調査の方法に組み込まれているはず [...]。
- もう一つは、このエントリの執筆者がブルデュー屋さんだ という点。
2000年代の初頭以降 私は、エスノメソドロジー関連の出版企画に積極的にコミットするようになった。それ以前の──「出版の話は すべて綺麗にお断りする」という──態度を変更したのは、社会学におけるエスノメソドロジーの上記のような状況(=扱われ方)が、一人の社会学愛好家・読書人として、たいへんに気に食わなかったからである。 そして、実現できた企画の一つ(ISBN:4788510626)に「エスノメソドロジーに関するよくある質問」 という付録 をつけたときに念頭にあったもののひとつが、ブルデューのEM批判だった。
つまり私は、その二つが見事に揃った上記エントリに、初心を想起させられたわけである。
社会学業界内でのブルデュー&ブルデュー屋さんの位置、というのは私にはわからない。
しかし──なにしろ翻訳がたくさん出ているし──(私も含め)読書人には かなりのポピュラリティをもっていることは間違いあるまい。
なのでまずその点で、ブルデューによるエスノメソドロジー批判は、営業上の観点(たとえば読書人や初学者・入門者たちに対する影響力という観点)からして、おおいに気になるものである。しかしそれだけではない。ブルデューの EM 批判は、そのステレオタイプさ・水準の低さ・無内容さの点でも、特筆に値する。一人の社会学愛好家・読書人として、当然のことながらブルデューも 長いこと好んで読んで来た私は、それだけに このことが気になっていたし、一度は「なぜこういう議論になってしまうのか」を考えてみたいと思っていた。
つまり 社会学における EM免疫化の考察、である。
ともかくも。
他人に「勉強しろ」と迫るよりは 自分で勉強するほうが ずっと簡単だ。
そんなわけで、半径1クリックの範囲で 友人・知人たちに参加を募って、初心を振り返りつつ新年会の企画をたててみた次第。参加者ならびにプログラムは次のとおり。
2011年新年(研究)会:ブルデューの方法をめぐって
酒井 泰斗(無所属/ルーマン・フォーラム) | ブルデューのエスノメソドロジー批判 概観 |
小宮 友根(日本学術振興会) | ミクロ-マクロ問題について: 会話分析と批判的談話分析の論争から |
岡澤 康浩(東大院:学環社情) | 早分かり対応分析 |
瀧川 裕貴(総研大) | ブルデュー社会学における対応分析 |
森 直人(筑波大) | 数量化III類の学校社会学 |
澤田 稔(上智大) | ブルデューのカリキュラム論 |
戸高 七菜(一橋大) | バーンスティンのブルデュー批判 |
團 康晃(東大院:学環社情) | 教育・階層研究: マクラウド『ぼくにだってできるさ―アメリカ低収入地区の社会不平等の再生産』紹介 |
今井 晋(東大院:文美) | ポピュラー音楽研究: 南田勝也(2001)『ロックミュージックの社会学 (青弓社ライブラリー)』紹介 |
海老田 大五朗(東京医学柔整専) | 身体技法の社会学: 倉島 哲(2007)『身体技法と社会学的認識』紹介 |
秋谷 直矩(立教他) | ゴフマンとブルデュー |
ゲスト: | 浅野 智彦(学芸大)、小澤 浩明(中京大)、北田 暁大(東京大)、七邊 信重(東工大)、高橋 直樹(新曜社) |
さて。
私自身は、ブルデューによる EM批判に対して、EM側からの目立った──社会学的議論の進展に寄与するような形・水準での──反論を聞いたことがほとんどない。おそらく 次のような理由でもって捨て置かれているのだと思われる:
- 批判の水準が低いので、反論する価値がない。
- 「データを見て何が言えるのか」というレベルでの批判ではないので、反論する必要がない。
たとえば研究市場への新規参入者が、ブルデューの影響力のせいで回り道をすることになるかもしれない。あるいは、生じてよかった筈の研究上の協力関係が妨げられるかもしれない。などなど。
ところで他方、
ではブルデューは「無知ゆえに 単に いい加減な批判をおこなった」のだろうか。そして そのことは「ブルデューにおける EM の重要度・関心の低さを示しているだけ」なのだろうか。そう言えれば話は簡単なのだが、おそらく それでは済まない。(特に、後期の)ブルデューの議論には、たんなる 噛ませ犬 的言及を超えた、もっとずっと積極的な参照がみられるからである。
また、小澤浩明は次のように報告している:
つまり、少なくともこのような仕方で引き合いに出すくらいには、ブルデュー自身にとっても EM は重要なものであったようなのである。(というか、三本柱の一つなのだから、むしろ「とても」重要な扱いを受けている、と考えたくなるが。)(...) 社会調査論として、近年ブルデューは〈社会-分析〉論なるものを提唱している(...)。[p.87]
〈社会-分析〉は次にあげる従来の三つの社会調査論 の反省とそれらの新たな統合をめざすものである。すなわち、[1] エスノメソドロジーの調査のツールヘの反省、[2] 数量的な客観的・構造的な認識への反省、[3] 個々人への臨床的なアプロ−チの反省 と これらの新たな結合 である。[p.101]
いったいここで何が起きているのだろうか。あるいはまた、このような 消耗的な状況のもとで、どんなことをしたら面白い議論の場を設定できるだろうか。
もちろん、なにしろ 批判をされているのだから、いちおうはそれには こたえたほうがよい のだろうが、この手の「火の粉を払う」 レベルの議論は──上述のように、もともとの批判水準が低いのだから──面白くなりようがない。
もし暇と余裕があるなら、もう一歩相手側に切り込んで、ブルデューの事情のほうを調べてみたいところである。──どうしてこの様な誤りが、首尾一貫した仕方で生じてくるのか、ということも含めて。
何かを批判=吟味することは、それについて学ぶことでもある。ならば、うまくいけば、「単に反論すること」以上の利得が得られるかもしれない。もしも、ブルデューに「よいところ」があるのなら、それを──首尾一貫した形で、しかしひょっとしたらブルデューの自己提示とは異なったやり方で──学び・活用していくやり方を知ることが出来るかもしれない。
そちらのほうへと議論を進められれば、少しは面白い話ができるかもしれない。
というわけで、「ブルデューとエスノメソドロジー」という不毛な 二者比較以外の、もうちょっと面白い話をするために、新年会のテーマは「ブルデューの方法(論)」にすることにした。
そして会の目標を、
に置き、中心的な検討課題として、
- [a] 「社会空間」概念に焦点をあてたうえで、[b] ブルデューによる 計量的手法の つかい方を検討すること
を選択しようとおもう(この方針については、次エントリにて敷衍する)。基調的報告は、瀧川+岡澤両名にお願いした。
残りの時間は、各参加者手持ちの知識を持ち寄って紹介しあうことで、ブルデュー研究ならびにブルデューを援用した研究の現状について──網羅的ではないにしても──概略的なイメージをつかみ、各人の今後の研究に資するために使うことにしよう。