ナセヒほか『ブルデューとルーマン―理論比較の試み』:理論社会学というものが私にはむつかしすぎる件について

夕食。がんばってなんとか読了 ──は したけれど。

ブルデューとルーマン―理論比較の試み

ブルデューとルーマン―理論比較の試み

  • 序章 何のための理論比較か アルミン・ナセヒ&ゲルト・ノルマン
第1部 理論構築と理論美学
  • 第5章 社会的意味 アルミン・ナセヒ
第2部 同時代診断
  • 第6章 ハビトゥスと機能的分化の十字標準刻線に捕らえられた女性と男性 ウアズラ・パゼロ
  • 第7章 区別する区別──ブルデュールーマンの理論における階級状況 アーニャ・ヴァイス
  • 第8章 アンガジュマンと距離を置くことの間で──ブルデュールーマンにおける時代診断と批判 マルクス・シュレーア


私がほとんど興味のもてない議論をみなさんされてらっしゃるので、「がんばってください」というくらいの感想しかないんだけど。かろうじて関心が持てそうなテーマをもつ いくつかの論考(3〜6章あたり)が、ほとんど意味不明な文章の連続で困る。これが翻訳の問題なのか それとも原著者の問題なのかの詮索は、CyberSnipe先生とかにおまかせするが、ワケワカラン文章の見本はたとえばこんなの(第3章「経験の理論」)

[‥] アンドレアス・レクヴィッツはたとえば、文化主義的な説明のための準拠点によって[ブルデュールーマンの]理論を区別した。彼はブルデューを実践の理論の多くの代表者の一人と分類するのに対し、ルーマンにおいてはたとえばクリフォード・ギアーツが用いているテクスト主義的方針があると診断している。なぜならば両者は社会性をテクストとして概念把握していたからである(Reckwitz 2002参照)。
 [‥しかしながら、] 言葉の世界をずっと後ろに置き去りにしていると思われるアイデンティティが、コミュニケーションにおいていかに形成されるかを示すためにルーマンがコミュニケーションに関心をもったということをはっきり認識するならば、ルーマンの議論をはっきり分類することはもはや説得力をもたない(超越、これについては Nassehi/Saake 2004参照13。 [p.98]

正しいとか間違っているとかの前に、この文章はそもそも何を言っているのか。

文化主義的? テクスト主義的? 社会性をテクストとして概念把握?  言葉の世界をずっと後ろに置き去りにしていると思われるアイデンティティ?  ・・・・なにそれ???(゚Д゚)???
「超越、これについては」なる挿入の唐突さと意味不明さに 思わず(´,_ゝ`)っとなってしまった人は私だけではないだろうと思うがどうか。


たとえばまたこんなの:

可能性──主体にかわるシステム

 経験的研究におけるシステム概念の適用は、理論を経験の抽象と考えるかぎり、問題に思われる。大きな対抗プログラムの試みとしてエスノメソドロジーは、社会的なものの理論的なものは社会的なものの適用において最もよく研究できるということを実演してみせた。そうであるならば、理論と経験は方法論において、共通のものを見出すことになる(Hirschauer / Bergmann 2002, S.334f.参照)。 このアプローチでは、ある理論的パースペクティヴの習得においても──そしてこのパースペクティヴがまだ方法論的であろうとも──他方で社会構造ないしは新しい方法論が発生するということを説明できない。システム理論はこれらが発生するということを前提として視野に入れることから始め、──エスノメソドロジー的アプローチのラディカル化ということができるかもしれないが──システム理論のシステム理論的基礎を指摘する。理論的に説明されるべきものによって、この議論の循環性は繰り返される。何かを観察可能にするためには、可能なものを限定し、何かを観察可能にする枠組みが必要なのである。[p.99]

ワケワカラン。

「社会的なものの理論的なものは社会的なものの適用において最もよく研究できる」.... ( ゜Д゜)????

参照文献は:

しかも、この段落に続くのがこういう↓文章であってみると、さらに謎は深まるばかり:

 この[システム論の-システム論への]自己適用において可視的になることは、理論は経験と同じ条件に従っており、この理由で、システム理論を理論的概念の巨大な構築物(Soentgen 1992参照)として説明するのではなく、ミニマリズム原理を一般化するものとして説明することが考えられる。つまり、システム理論はコミュニケーションの自己限定の原理を記述し、この原理はあらゆる状況で、──そのような理論的反省という状況においても反省とは疎遠な行為の状況においても──繰り返される。 [p.99]

というか。深まるもなにも、これ日本語じゃなかろうもん。


後↑の段落で述べられているのが、こういう↓ことであるなら、とりあえず反対する理由はない。

  • a) コミュニケーションは自己限定しているよ。
  • b) システム論はそれを記述するよ。
  • c) a はシステム論[的な記述実践]にも当てはまるよ。
この場合には、次に、では「自己限定とはどういう意味か」、「理論」とか「経験」とかいう言葉で何が指示されているのか、などといったことが 問題になる、というだけ。


仮に著者はそういっているのだ、と考えてみよう。ところが/すると、その前の段落とあわせて読むと この著者は、エスノメソドロジー的アプローチ」は たかだか a〜c くらいのことが言えない、という主張をしていることになってしまう。 しかし、社会学で博士号をとったひとが、そんな馬鹿馬鹿しい主張をするだろうか? →ありえない。
ならば著者は何を言っているのか。 ‥‥ぜんぜんわからない。


ともかくここで、私の想像力をはるかに超える何事かが生じている。というのは間違いない。
社会って複雑だな。


気を取り直してもう一度読んでみようか。
後の段落で「理論は経験と同じ条件にしたがっている」と言われているのだから、著者は、前の段落の3文目「理論と経験は‥共通のものが」云々という命題にも賛成しているのだろう。

何をいっているかはわからないが。

とすると、EMに対する文句(?)は、その次の文章から始まる、と理解してよいだろう:

  • [1] エスノメソドロジー研究という]このアプローチでは、
    • [1-1] [一方で]ある理論的パースペクティヴの習得においても[‥]
    • [1-2] 他方で社会構造ないしは新しい方法論が発生するということを説明できない。
  • [2] システム理論はこれらが発生するということを前提として視野に入れることから始め[‥]
  • [3] システム理論のシステム理論的基礎を指摘する。
  • [4] 理論的に説明されるべきものによって、この議論の循環性は繰り返される。
  • [5] 何かを観察可能にするためには、可能なものを限定し、何かを観察可能にする枠組みが必要なのである。

それで著者によると、エスノメソドロジー研究は、何ができないのか。

  • 「ある理論的パースペクティヴの習得においても──そしてこのパースペクティヴがまだ方法論的であろうとも──他方で社会構造ないしは新しい方法論が発生する」

いくらなんでもこれ↑は破壊的に過ぎる文章だ。が、ともかくも、想像力をレッドゾーンまで振り絞ってみると、ひょっとして、こういいたい...のだろう.....か???:

  • EMではこれら↓がいえない:
    • 理論の習得において新しい方法論が発生すること
    • [新しい]社会構造が発生すること


えーと....。
段落を逆に読んでみようかw。
[5] はおそらく「(予期)構造」のことを言っているのだろう。すると[4] の「理論的に説明されるべきもの」というのも、それを指しているのかもしれない。そうだとすると、[3]-[5] は、

  • d)〈社会システムの作動〉(社会システムを)記述する という作動〉 も、作動のためには構造(=自己限定)が必要だ、という点では変わらないよ

というだけのことを言っているのか。

ところで後ろの段落の「コミュニケーションの自己限定の原理」とは、もちろん「構造」のことである。てことは、この概念をブリッジにして、段落が展開しているのか(も)。 だとするとこれで、

いちおうなんだか話がつながる気はする。
が、それでも [2] は意味不明。[1] が意味不明なんだから仕方ないけど。


・・・でもこの読みもだめだ。だって(d)は(a〜c)と「同じ」主張だからね。


というかなんだこれは。クロスワードパズルか、と。


書き写してみて、あまりのことに却って興味がわいた。原文はどうなっているのでしょう。
買ってみる:

Bourdieu und Luhmann: Ein Theorievergleich

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1,500円也。