上山さんには、酒井の1/31のエントリ(id:contractio:20100131)に対して、同日のエントリ(id:ueyamakzk:20100131)を皮切りに 複数のエントリにてお返事をいただいています。このエントリでは、主として そのうちの最初のものにお返事します。
1/31のエントリで私は、上山さんのエントリに対する困惑を書いたわけですが、その後にいただいたエントリをみて私の困惑は さらに深まっています。このエントリではその困惑について記すとともに、議論を少しでも前に進められるように、一つの提案をおこないたいと思います。
論点
焦点
上山さんの 1/31 のエントリの焦点は次の箇所ではないかと思いました:
UP 直前の走り書き:【引用0】
- 私は、《秩序に適応できる社会性》を生きにくくなっている人間のひとりとして、新しい社会性のあり方を模索し、提案しているのだと思います。 すでに持続的な秩序参加に成功しておられる酒井さんには、ひょっとするとこの問いのポジションはないのかもしれない…。
- 《分節プロセス-を-記述する》、この赤字部分が構成されるプロセスの苦しさや暴力を、私はひたすら話しているのです! 《記述する》、その行為がプロセスとして構成される難しさ、また、(被支援者の場合)最初から置かれている被差別ポジション、など。 描かれる対象として実体化されるアイデンティティ(相互作用類)ではなく、描くプロセスとしてようやくまとまりを作る、バラバラになった私。 プロセスを中心化する《耳》の前でしか、居場所(アジ―ル)を得られない議論。
以下で扱いたいのは次の4つの箇所です。ただし、このエントリの主要部分は このうちの論点1だけをターゲットとしています。
論点1
【引用1】
- 酒井さん(あるいはエスノメソドロジー)は、すでに営まれている秩序を、「うまくいったあとから*1、うまくいったものとして」描こうとされている。
- いっぽう上山は、すでに営まれている秩序を、「自分や周囲の誰かが、耐え難い苦痛を感じているものとして、事後から秩序に送り返す形で」描こうとしている。 あるいは
「いまだ秩序に参加できないので、これからどうしたらいいか」という課題とともに、考えようとしている。
論点2: 固定的な役割アイデンティティとしての相互作用類 v.s 、《分節プロセスとしてのアイデンティティ》
【引用2】
- 状況への分節労働として、プロセスのかたちで生きられるしかないアイデンティティを、固定された「相互作用類」に対置すること。
論点3
【引用3】
- これは部分的には、「エスノメソドロジー(EM)の実践的な課題にあなたも取り組んでみればよい」と、今の私には読めます*7。 そしてそれは、一歩まちがうと「その場の方針に順応的に振る舞え」になる。
- 酒井さんは「それは学問の問題ではない」とおっしゃるのですが、とりわけ苦痛緩和を目指して人が人と接する、それも社会参加そのものが問い直されるジャンルでは、「学問そのもの」も、具体秩序の共犯者になっています。
論点4
「そもそも動機づけから、議論の組立が違っているのかもしれない」とも思わせられたのでした。
【引用4】
論点1について
a. 困惑の理由
私が困惑しているのは、上山さんが、わかっていること-と-そうではないはずのこと とを分けて扱っていないようにみえるからです。たとえば【引用1】は その例をシンプルな形で与えています。
つまり、これをみてまず私は、簡単な話、「酒井さん(あるいはエスノメソドロジー)は」とか、「すでに持続的な秩序参加に成功しておられる酒井さんは」とか、「「論じている側の苦痛」が感じられず」などなどと云々しうるほどには、上山さんは、酒井(やエスノメソドロジー)について知らんでしょうに と思いはするわけです。
まずこの点で、私は上山さんに対して文句をいってもよいはずです。まぁそれはそれとして。
b. 問題点
それはそれとしても、上山さんの語り方にはさらに問題があります。上山さんが述べている この二つの不確かな主張:
- 酒井は、すでに営まれている秩序を、「うまくいったあとから、うまくいったものとして」描こうとしている。
- 酒井は、すでに持続的な秩序参加に成功している。
は──不確か*であるにもかかわらず──、相互にお互いの理由を与えるような形で配置されており、それによって もっともらしさを醸し出している、ということ。
これもこれで、やはり批判に値するものだと思うのですが、しかしそれがこのエントリの主要な目的であるわけではありません。
そうではなくて、このようなやり方でもって、あることが「もっともらしく」語られているときに、まさにそのことによって隠れてしまうものがあること、これが私の指摘したいことです。どういうことかというと。
c. それが隠すもの
そもそも、「(秩序への-)参加」とか「対象化」とか「記述」とかいったことは、上山さんが現時点までに すでにはっきりと、論点として挙げていること(あるいはそれに直接にかかわること)であるはずです。
これらは、少なくとも私たちの議論においては、そもそも解明の必要な事柄として・解明の対象として扱うべきことではないのでしょうか。
ところが上記のような「もっともらしさ」の水準で議論を動かしているとき、上山さんは、これらを、あたかも「解明済みの」論争パーツであるかのように扱っています。
なるほど、ひょっとしたら 上山さんが指摘しているように、酒井(やEM)には、上山さんの議論をフォローできなくなってしまうような いわば「構えの違い」のようなものがあるのかもしれません。そういう可能性は否定しませんが、しかし、私たちはそうしたことが問題になるほど議論をし・論点を明らかにしたのでしょうか? ──あきらかに「していない」でしょう。
にもかかわらず「ポジション」やら「動機づけ」の詮索をし始めるのは下策もいいところです。そんなことをする前に、まず「論じるべき事柄は何であるのか」を明らかにすべきでしょう。
一方で、目下の「問題」自身は、上山さんがずっと取り組んできて・これからも取り組み続けることを表明しているものであり、他方で、私たち二人に「緊急に解決すべき課題」があるわけでもない。とすれば、これは議論をするには そんなに悪くない状況であるはずです。にもかかわらず「急いで」話を進めようとするのは──上山さん自身に「急いで」いるというつもりがないのであれば──、それはつまり、「上山さんが取り組んでいる課題」なるものの分かりにくさについての深刻な自覚がないからではないのか(上山さんにとって「あたりまえ」のことだから、「それがわからないということは・・・」という風に、発想が進んでしまう、ということではないのか)、と考えたくもなります。
《分節プロセス-を-記述する》、この赤字部分が構成されるプロセスの苦しさや暴力を、私はひたすら話しているのです!私はこうした主張が 目下のところ「わからない」ままであるといっているわけなので──そしてまた、そうした主張を「わけのわかる」ものにしよう、と呼びかけているわけなので──、それを 赤字にしたりエクスクラメーションマークをつけてみたりしても、それが「わからない」ものにとどまることにはかわりはないのです。
ともかくも、ちょっとペースを落として、私が何を「わからない」と言っているのかにも もう少しだけ耳を傾けてほしい、とお願いしてみたいところです。
が、この「お願い」がこのエントリでもっとも言いたいことであるわけでもありません。
d. 提案
以上のことを準備として、ようやくこのエントリの目標にたどり着きました。
上に述べたように、「対象化」や「記述」は、上山さんが現時点ではっきりと論点として挙げていることに直接かかわる語彙です。そうであるからこそ──上述のような形でこの論点を取り逃がすようなやり方はやめて──、この論点を もっとちゃんと分節化していく必要があるだろう、というのが、このエントリで私がもっとも言いたいことなのでした。
その方向へ向けた提案として、「問うべき問い」の案をシンプルに ひとつ挙げてみたいと思います。すなわち、最終的に問われるべきことは、
- 「ある人(たち)がやっていること-を-別の人(たち)が記述すること・対象化すること」は、
どのような事情の下で 誰かに苦痛を与えるものとなるのか
ということではないだろうか、というのがそれです。
この問いに対して「一般的な」答えを与えることは難しいでしょう。しかし 幸いなことに、私たちにはそんな必要はありません。上山さんは、「ひきこもり」の周辺で生じた「記述・対象化による苦痛」については よくご存知であるわけですから、その範囲内で具体的な事柄に即して議論を進めることができるはずです。(私はそうしたことについて ほぼ何も知りませんが、それは 教えていただければいいことだと思います。)
以下少しだけ、上記のように問うことの利点について敷衍しておきます。
- [A] 私たちは、日々の生活の中で「他人や自分のしていること」の記述をしばしば行います*。
しかし/そして、そのすべてが 記述された人に対して苦痛をもたらすわけではありません。
ならば、そのうちのいくつかが誰かに苦痛を与えることがあるのだとすればそれは、「記述されたから・対象化されたから」ということ以上の理由が必要でしょう。(こう考えることによって、「記述」や「対象化」について、現在よりももっと立ち入った議論をすることが可能になるはずです。)
- メアリー・ヘッセ『科学・モデル・アナロジー』
ところで、──上山さんの各種エントリに依拠していうと──「ひきこもり」の場合、当人やそのコミュニティの周辺に、さまざまなエージェント(支援者、医療関係者、研究者などなど)が登場します。そして
- [B] その人たちもまた、「ひきこもり」のひと(たち)を記述・対象化する
わけですが、それらのさまざまな記述たちについても、上で述べた事情──そのすべてがいちいち誰かに苦痛を与えるわけではないだろうこと──は あてはまるでしょう。それはそれとして、ここでさらに、上山さんが 〈オブジェクト/メタ〉なる図式を ウルトラに抽象的なやりかたで振り回しつつ語ろうとしている事柄を、もっと抽象度を落として語ることが出来るようになるはずです。というのも、ある記述については、それが
- 「誰による」
「いつどのような状況のもとで行われた」
「何についての」
「どんな(ex.いかなる権利のもとにおける)」
「誰に向けた」
ものであるのか
などなどといったことを問うていくことが出来るからです。
たとえば、上山さんの議論の中にはすでに、
- [C1] ひきこもりの人自身による 自分やコミュニティについて の記述、
- [C2]「ひきこもり-と-支援者」「ひきこもり-と-研究者」などの関係のあり方についてのひきこもりの人による記述
などといったものが登場しています。
ここで、[B] と [C] の関係について、次のようなことはすぐに指摘できるでしょう。
まず、上山さんのブログに登場する「[B]-[C1] 関係」および「[B]- [C2] 関係」のどちらにおいても、権利の配分が問題になっているように見えます。
ところで [C2] の場合、一方では確かに、「専門的記述者たち-が-対象化される」という意味で、それを〈オブジェクト/メタ〉図式で語ることは可能でしょうが、しかし他方で──それぞれが「何について」の記述であるかを考えてみると──、[C2] と [B] では、異なるものを対象としているわけですから、その意味では〈オブジェクト/メタ〉の関係は成り立っていません。
これに対して [C1] は、記述の対象が [B] と同じであり、そのために、記述の競合が問題になっている、ということがいえるでしょう。
- 「[C1]:ひきこもりの自己記述」と「[B1]:支援者によるひきこもりの記述」が競合したときに、[C1] が省みられることなくむしろ抑圧される(=そう主張する権利のないものとみなされる)
すると、目下話題になっている「専門性」や「科学」(や、ひいては、そのもとにおける差別などなど)などなどといった論点について、こうした(ひきこもりのひとたち自身をも含むさまざまなアクターによって広範に行われている)「複数の記述たち それぞれの権利・身分」を焦点として、上述のような観点からから分節化しつつ もっと具体的に議論していけるのではないか、と思われます。
とりあえずこれが、このエントリでの私の提案です。
以上で、このエントリの主要部分はおしまいですが、以下いくつか補遺を。
補遺
論点1について: 社会的秩序
通りすがりに持ち出しはしましたが、術語としての「社会的秩序」(や「社会的システム」) は、私にとって どうしても使わなければならないものではないですし、以下の議論でも使わずに済ませることは可能です(なにしろ普段こんな言葉は使いませんし)。 それはそれとして、上山さんが表明された違和感をフォローする目的で(のみ)少しメモを残しておきます。
- a.酒井さん(***)は、すでに営まれている秩序を、「うまくいったあとから*1、うまくいったものとして」描こうとされている。
- b1.いっぽう上山は、すでに営まれている秩序を、「自分や周囲の誰かが、耐え難い苦痛を感じているものとして、事後から秩序に送り返す形で」描こうとしている。 あるいは
- b2.「いまだ秩序に参加できないので、これからどうしたらいいか」という課題とともに、考えようとしている。
まず私は、術語としての「(社会的)秩序」を、〈うまくいっている/参加者に苦痛を感じさせている〉といったことからニュートラルに用いました。
「整然と並んだ机を見るだけで冷や汗が出てくる」ためには、「机が整然と並んでいる」ことが「見てわかる」ようになっていることが必要です。そのように「見てわかる」ようになっていることを指して「秩序がある」という言葉を私は用いました。
ところで、「a & b1」と「b2」は、異なるものを指しているように思います。b2 のほうは、たとえば 一般に「社会参加」などと言われるときの「参加先」に相当するものでしょう。こちらは術語としての「秩序」よりは 遥かに狭い意味で使われているのだと思います。
これらについて、二つのことを指摘することが出来ます:
- 「秩序への順応的参加」「秩序への非-順応的参加」などなどといったことは、すべて「秩序」という概念とともにこそトピックとなすことが出来るはずの事柄です*。([a]、[b1])
- 他方、[b2] のような、「社会参加」などといわれるときの 参加先X については、「Xに〈参加する/参加できない〉ことはどのような秩序を形成するか」などといったことを問うことができるはずのものでしょう。
論点2について: 固定的役割アイデンティティ
上山さんいわく:
自己執行的であっても、固定的な役割アイデンティティは、私には耐えられません。 そこで実体的な「役割アイデンティティ」の代わりに、《分節プロセスとしてのアイデンティティ》を立てたい(苦痛緩和のために)。 状況への分節労働として、プロセスのかたちで生きられるしかないアイデンティティを、固定された「相互作用類」に対置すること。
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20100131#p2
イアン・ハッキングの謂う「相互作用類」は 現象の特徴を指示するための言葉であり、指示対象が「固定的であるか否か」については何もいっていません。
- id:contractio:20080731#p1、id:contractio:20071115#p1、id:contractio:20071208#p2、さらに id:contractio:20071129#p4
そして、この言葉についても、前エントリで述べたことがそっくりそのままあてはまります。つまり、上山さんは いきなりここで議論を〈分節化プロセス/固定的(〜実体的〜構築された)アイデンティティ(〜結果物)〉のような大雑把な図式で大鉈を振るうように類型化──固定的にアイデンティファイ──してしまうのですが、しかし、
- 「固定的」ということは どういうことであるのか。それは どのようにして生じ・再生産されるのか
といったことは、そもそも解明したかった・解明の必要のある 事柄であったのではなかったのでしょうか。
目下の話題においては、「相互作用類」という言葉は、
- 世の中に「ひきこもり」という言葉で呼ばれる人たちがおり、
- そのように呼ばれる人たち自身も(全員ではないにしても)、自分たちを「ひきこもり」と呼んでいる。
ということを指すために(のみ)用いており、またそのように用いることができるものです。そして、「ひきこもり」の人々や、そのひとたちの他人たちとのかかわり方が実際のところ「固定的」であるかどうかは、この概念が決めることではない。
それはこの言葉ではなく、それが指している対象のほうに鑑みて検討されるべき事柄です。そしてもしもそれが「固定的」なものであるとしたら、それは「それが相互作用類であるから」ではないでしょう。
論点3:
酒井さんは「それは学問の問題ではない」とおっしゃるのですが、とりわけ苦痛緩和を目指して人が人と接する、それも社会参加そのものが問い直されるジャンルでは、「学問そのもの」も、具体秩序の共犯者になっています。
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20100131#p1
これに類するフレーズは、このあとのエントリでも登場しますが、上山さんは「それ」の指示先を間違って受け取っています。
上山さんの主張には、
- 研究者の行う活動が、研究対象・フィールドに対して、苦痛を与える場合がある。
- 研究者はみずからの研究対象・フィールドへのコミットメントについて反省すべきだ。
とか、
- 研究者と研究対象とのかかわり方について、研究者と研究対象とが共同で対象化することができるのではないか。
などなどといったことが含まれているように思いますが、これらの主張自体ははそれぞれ ごもっともなものであり、私にとっては反論する必要のないものです。そして/しかし私は、こうした↑事柄が「学問には関係のないことだ」などという主張はまったくしていないのです。
- a. 私や上山さんのような非-研究者が、研究(のあり方 や 研究者 や 研究による知見 などなど)とどのように付き合うか
- b. 研究者が、研究のあり方(フィールドとの付き合い方も含む)を どのように反省するか
目下の議論で すこし話がややこしくなっているのは──そしてまた、上山さんと私との間にコントラストを生じさせているように「見せて」いるのは──、上山さんが「専門家による記述の対象」でもある、という事情によっているでしょう。だからといって、a と b の区別がなくなるわけではないし、上山さんが 彼/女たちのなすべきことを・彼/女たちに代わって 行わなければならなくなるわけでもないでしょう。上山さんには上山さんが、自らの権利において できることが(当然のことながら)あるはずであり、それを為せばよいだけの話です。そしてもしも、それが阻害されるようなことがあるならば、そのときには、上山さんは──たとえば「研究者のポジション」にとってかわろうとすることによって、ではなく──自分自身のポジションにおいて、それに相対すべきでしょう。
これについてはこの指摘だけで話は終わりですが、通りすがりに 一点指摘しておくと。
EMには、この論点については 他の諸作法と比べた場合の 研究方針上の はっきりとした美点があるように思います。というのも、以前記したように、
- 「研究対象」
「研究対象を記述する活動」
「研究者の対象との関わり」
などなど
は、どれも「エスノメソドロジー」であり、したがって、
- 「研究対象の記述」
「研究対象を記述する活動の記述」
「研究者の対象との関わりについての記述」
などなど
は、どれも「エスノメソドロジー(研究)」として遂行できるわけで、ということはつまり、「EMは、これらすべてについて、やり方を変えずに(言い換えると 首尾一貫したやり方で) 検討を進めよう という方針をとることができる(/要請される)」というのがそれです。
そして、ふつうはそうはいかないのです。そのことは、いわゆる「社会学の社会学」などと呼ばれる議論をみればわかります。「自己の活動への反省」は、自食的・自家中毒的な試みとなることが多く、その多くは
実質的には研究活動のあり方を変えていくことには ほどんど役にたたない場合が多いように思われます。
そうしたやり方と比べてみると、
「対象の分析」と「自己分析」が、相互に分析能力を昂進しあう関係を保つような仕方で「(研究の)自己反省」をおこなうという方針は、
そうした自食的な在り方に対する代替案でありうるように、私には思われます。
このエントリは以上です。