『概念分析の社会学』合評会拾遺(その2)

上山さんへのお返事、その2です。

※追記: このエントリと入れ違いでお返事をいただいておりました。


トピックを再掲。

【A1】上山さんの質問「その後の質問時間に、私から次のように会場質問した」以下
・【A2】上山さんの再質問「【追記】: 「事業の類」 「学者の事業そのものを、臨床活動と理解することはできないか」というのは、いちばん聞いてみたかったところなのだが、〜」部分)
【B1】登壇者側の返答「これに対し、複数の先生方から、大意つぎのようなお返事をいただいた」以下)
・【B2】酒井による追加リプライ「酒井泰斗氏からは、本書出版をめぐる事情説明があったのだが、」以下の引用部分
【C】「今の時点でのメモ」

【10】 上山さんの質問 [A1] [A2] について


上山さんの質問 [A1] に対する執筆者側の回答に対して、上山さんは次のようにメモしています(改行と付番は引用者):

  • [A2]【追記】:
    • [A2a] 「事業の類」 「学者の事業そのものを、臨床活動と理解することはできないか」というのは、いちばん聞いてみたかったところなのだが、どなたからも言及はなかった。
    • [A2b] ▼メタとオブジェクトの関係を主題化することで、様々な事業が分類できるし、自他の苦痛緩和のためにもその必要があるのではないか、というのが私の質問趣旨だった。 この点は、私じしんが勉強を進める中で考えたい。

もし「一番たずねたかったことに応答がなかった」ということだとすると、それは残念なことですが、ここには上山さんの側にも考えてみていただきたいことがいくつかあります。
 今のところ上山さんの問いは そんなに判明ではないですし、そしてまた、回答者側には 上山さんのいう「臨床」という言葉に そんなに簡単には乗れないそれなりの理由があります。そういう事情はありながらも、回答者側はそれぞれ、「このへんならヒットするかな?」と思いながらそれぞれボールを打ち返したわけですから、その事情を踏まえた上で もう一度回答を見直してみてもいただきたいのです。

 その作業をしていただくためにも、以下再度、こちらで書けることをいくつか書いてみましょう。

【11】 臨床・治療・介入?

まず、上山さんの問いが判明ではないように見える理由には、それが「臨床」という言葉に強い負荷がかかった形で立てられていることも大きく関わっているように思います。つまり、「臨床」という言葉がどういう意味で・いかなる権利で使われているのかがよくわからないのです。

 「臨床」という言葉のもっともメジャーな用例は 基礎医学臨床医学 というものでしょう。そして、言葉自体を見ても、「臨床」という漢語の場合も、clinical という語の語源を見ても、この言葉は「ベッド」と関連していることが見て取れます。ベッドの上にいるのはもちろん「病人」であり、その傍らに臨んでいるのは医者たち(医者とその弟子)です。つまり──あたりまえのことをわざわざ指摘して恐縮ですが──この言葉は、メジャーな用例においてもその言葉の成り立ちにおいても、「治療」を含意しているわけです。

この言葉の用例を少しさかのぼってみると、さらに様々な使われ方をしていることがわかります(中には、「治療」に相対的に無関心に用いられていたこともあるようです)。こうした議論の端緒をなしているのはフーコーの『臨床医学の誕生』でしょうが、端緒であるだけに、その後あれこれ批判も受けているようです。そして──「臨床」という言葉の医学にとっての重要性から考えて当然のことながら──、そうした研究の厚みは膨大なものであって、そのほとんどを私はフォローしていません。(なのでますますこの言葉にコミットする勇気を持つことはできない、というわけなのですが。)
 他方で、この言葉がここ10年ほどの間に医療以外の様々な分野でバズワードとして用いられ始めていることは、私も知っています。
社会学の中にも「臨床社会学」なんてことを言っている方たちがいらっしゃいますね。
そうした文献の一部には私も目を通していますが、これまでのところ、そうした人たちがなぜこの言葉をどうしても使わなければならないと考えているのか・それを使うと何が言えると考えているのか、説得力のある議論を見たことは 残念ながらありません。その点も、この言葉を差し出されたときに当惑せざるを得ない理由となっています。

 特に社会科学者にとっては「お前の研究は「治療」の役に立つのか?」という質問は過酷なものであって、積極的に答えるのを躊躇するほうが当然だと私は思います。なので──上山さんに「この言葉を使うのはやめろ」などというつもりはありませんが──この言葉に強い負荷をかけながら問いを立てている限りは、議論は難しいだろう、ということまではお伝えしておかなければなりません。

質問の中でウィトゲンシュタインの謂う意味での「治療」についても言及しておられますが、この点については別途コメントします。

言い換えると/いずれにしても、ここからお互いにもう一歩歩み寄るためには、上山さんの側でも、自らの問いを、「臨床」という言葉に強い負荷をかけずに再定式する作業はしていただく必要はあるでしょう。

 通りすがりにもう一点指摘しておくと。報告の中で私は次のように述べました:
  • [1] 経験科学の目標・理念は「対象に関する(真なる・新規性のある)知見を獲得すること」であり、
  • [2] 通常それは、「理論構築を介した因果的説明」とか、「理論*-と-方法**」といった形で定式化されるが、
  • [3] エスノメソドロジーの場合、前者[1] については通常の経験科学と一致するが、後者[2] については一致しない(=別のやり方をとる)のだ。
[1] は科学についての規範的言明です。念のため。
つまり、これ↑に反する事態──は実際にいくらでも生じているけれども、それ──が生じたときには、こちら↑ではなく・その事態のほうが棄却される、ということになるはずのもの。
* 真/偽の値を割り振られる対象。
** どのような 道hodos に 沿ってmeta 真理へと到達すべきか の検討。

そして [1] は、それを抜かしてしまうと 特定の活動が そもそも「(経験)科学(の)研究」ではなくなってしまうようなものです。だから「経験科学」に対するいかなるリクエストも、この↑目標・理念を超えることは出来ません。
仮にそんなことをしてしまうならば、それは、イタ飯屋に行って梅紫蘇巻をリクエストするよりももっとはるかに破壊的なリクエストをしていることになります。
【12】 質問 [A1a] [A1b]

 という前フリのうえで。
 簡単に答えられそうなところから再考していきます。

  • [A1a] ひきこもり経験者の集まる共同体では、思想の本を読んでいるだけで「頭でっかち」あるいは「寝返った」みたいに言われることがあります。 支援現場でアカデミックな理解を語ろうとすると、それだけでコミュニティから逸脱する危険がある*10。
  • [A1b] 私自身をふくめ、多くの人がアカデミシャンに怒りや不信感を抱いているのですが、そこで常にネックになるのが、《研究》という言葉です。 「この話は、研究者には言わないでくださいね」 「俺たちを昆虫みたいに研究して、“業績” を作るんだろう」云々…。
  • [A1c] きょう前半のほうで、[...]
  • [A1d] さきほど中岡先生から、[...]
  • [A1e] 私は数年前から [...]
  • [A1f] アカデミック・サークルに向けては、[...]

このように並べられた文をみたときに、私には、これらが、つながった話のようにあまり見えません。ここではまず [A1a] と [A2b] だけを取り上げて見ましょう。


 [A1a] については、ちょっとピンと来ていません。支援現場であれ どこであれ、

  • やりとりにおいて いつも重要であるのは、まずなにより 「その場に関係のある資源を-時機に適った仕方で-投入すること」 なのであって、
  • この↑事情に対して、「用いられる知識が 「学的知識」であるか否か 」ということが 効くことが どれほどあるか、

ということについて、私は やや訝しく思っています。

言い換えると、上山さんの投入した「知識」が、その場に関連していないように受け取られた か、時機に適ったものではないと受け取られた か、ということだった可能性について、まずは考えてみたくなるわけです。(そして、そうした理由で問題が生じうるということは、その知識が「新聞で読んだ」ものであれ、「おばあちゃんに聞いた」ものであれ、「専門書で読んだ」ことであれ、変わりがありません。)
そもそも私には、上山さんがなぜ・どういう必要があって「支援現場でアカデミックな」語り方をしようとするのか、それがよくわからないのですが。

 ともあれ私自身には、日常生活における「非-専門家たち」とのやり取りの中で 多少なりとも「専門的」な知識を用いることで、なにか目だった問題が生じた という経験(をした記憶)が あまりないので、これは なかなか想像することが難しいところがあります。もっと事情をよく教えていただくほうが先かも知れません。

たとえば、支援現場では「学校的なもの」が嫌われる、というようなことがあるのかもしれません。けれども、そうであるならば、知識を使うときに・それが「学校的なもの」に見えないようにデザインすればよいだけのことです。それが出来ないのなら そんな知識は使わないほうがいいでしょうし、逆にそうした知識が どうしても必要であるのなら それが手になじむなるくらいに・自在に使えるように 自分を 訓練すべきでしょう。そして ・・・これは、学問の問題ではありません(個々人が──「学問」を含む──様々な知識とどのように付き合うか、という問題です)。
「学問への参照は自分がどうするかなので〜」というのは私からの回答でしたが、これはそういうことを述べたかったのでした。


 それはそれとして。
 [A1a] と [A1b] はどのように関連しているでしょうか。おそらく上山さんとしては、[A1a] を、「「研究」に対する敵意」の例として(も)引き合いに出したかったのではないでしょうか。しかし私には、[A1a] と [A1b] は 別の問題に見えます。
 [A1b] は、まずは──前エントリに書いたように──「調査倫理」に関わる事柄であるように思います。もちろん、それだけとは限らないかもしれませんが、しかし「それ以上のこと」を云々するためには情報が足りなすぎます。

 いずれにしても、「支援現場に研究に対する不満や嫌悪が実際にある」ということは、「研究」というものを一枚岩に見立てて、そのあり方の変更を要求する理由にはならないでしょう。上掲 [1] という目標のもとで、しかし、多様な「研究」がありうるわけですから。

というわけで、別の登壇者から「研究の中身を見てくれないと...」というリクエストが出てきたのでしょう。

 あるいは、「そんなのは「研究者」のいい訳であって、実際に現場で起きている「研究アレルギー」をどうしてくれるんだ」みたいな返し方はできるかもしれませんが、しかしそうしたことをしてみたところで何か話がすすむ(=事態が変わる)わけでもないでしょう。ならばもっと別のことを考えなければなりません。


質問の続く部分:

  • [A1d] さきほど中岡先生から、「対象という言葉を使うのは患者さんに失礼だ」というお話がありましたが、「記述・分析」というメタな作業と、その記述対象をスタティックに分けるというのは、《研究》という事業内の秩序にあたります。 そこで、「医師や患者がやっているのは《臨床=オブジェクト》だが、学者は《研究=メタ》だ、というのではなく、むしろ学者の研究事業そのものを臨床活動と位置づけることはできないでしょうか*12。 たとえばウィトゲンシュタインは哲学を「治療」として語っていますが*13、私が先生方のお仕事を参照するのは、自分の臨床上の必要でもあります。 インテリごっこをするためではない。
  • [A1e] 私は数年前から酒井さんのブログを読ませていただいているのですが、それは酒井さんがアカデミズムへの制度的所属を持っておられないことが大きい。 「単に制度的に事業順応していない」というのは、外部から見ると、大きなアクセスチャンスになるわけです*14。
  • [A1f] アカデミック・サークルに向けては、「これは研究であり社会学だ」というアナウンスは必要だと思いますが(行政上の説得など)、一般に向けては、「これは医師やカウンセラーとは別の、独自の趣旨をもった臨床実践だ」とアナウンスすることに、意味はありませんか。 それだと、先生方の業績にもアクセスしやすくなります。

 上山さんがもっとも尋ねたかったこと[A2] はここに関連しており、質問された私たちにとってはフォローするのが難しい箇所でした。

上山さんがここで「研究」に対して「リクエスト」をしていることはわかるにしても、それが「何についての・どういう」リクエストであるかは判明ではありません。

ざっと見て、
  • 研究者コミュニティ外へのプレゼン or アナウンス内容
  • 研究の実質的な内容とあり方
に関連しているようには見えますが。


 これについてはエントリを改めて、考えてみることにします。
 このエントリはここまで。