『概念分析の社会学』合評会拾遺(その1)

 上山さんのレポートへのコメントをば:id:ueyamakzk:20100112

 こうしたレポートへ登壇者がコメントすると、あたかも「正解の提示によりレポートを添削する」かのように見えてしまうかもしれません。が、普段の生活のなかでは多人数の前で喋る機会などない私としては、その場で明瞭な語り方ができていなかったという自覚はありますので、以下に書くことは、基本的には、上山さんのレポートを拝見しながら「本当はこんな風に喋れればよかった」と思ったことです。敷衍・訂正の機会を与えていただいた上山さんに感謝します。


さて。ざっと考えてみるに、以下の論点それぞれについて語るべきことがありそうです:

  • 【A1】上山さんの質問について: (「その後の質問時間に、私から次のように会場質問した」以下)
    • 【A2】上山さんの再質問について: (「【追記】: 「事業の類」 「学者の事業そのものを、臨床活動と理解することはできないか」というのは、いちばん聞いてみたかったところなのだが、〜」部分)
  • 【B1】登壇者側の返答について: 「これに対し、複数の先生方から、大意つぎのようなお返事をいただいた」以下)
    • 【B2】酒井による追加リプライ: 「酒井泰斗氏からは、本書出版をめぐる事情説明があったのだが、」以下の引用部分)
  • 【C】「今の時点でのメモ」について: 


これらを一度に論じるのは無理ですので、いくつかエントリをわけてお答えしたいと思いますが、中に、早急に訂正しておきたいものがいくつかありますので、まずはそこから行きましょう。

【0】

以下の二つの引用は、どちらも私の発言にかかわるものです。

引用1

「自分のやっていることを観られる、再記述される」というのは基本的に不快であり、トラブルのもとになりがち。そこは心理系の研究者は分かっていて、実践的なスキルを持っている

⇒私(上山)はやや疑問。 「スキルで解決する」というより、関係性の作り方について、もっと原理的に考えるべきことでは。 たとえばそれは、「社会学登場以後の歴史をつくること」ではないか(参照)。

打ち消し線を引いた箇所で私が述べたかったのは次のようなことでした:

  • フィールドに出かけていって研究する人たちは、そこでしばしば軋轢やトラブルが生じることをしっていて
    しかも、中にたいへん たちのわるい(or 困った)研究者がいることをしっていて、
    そのことを非常に気にかけており、明示的にも たとえば「調査倫理」といったタイトルでもって、そうした問題について検討・対処しようとしている。
念頭においていたのは「心理系」の研究者ではなくて、「フィールドを持って研究している人たち」一般でした。なので、これはもちろんエスノメソドロジストに限らない話です(念のため)。

こういう話をしたのは、もう少し問いの 切り分け が必要だろうと思ったからでした。上山さんの言うような「もっと原理的に考えるべきこと」はあるのかもしれませんが、しかしそれは「調査倫理」というタイトルのもとで語りうる論点をクリアしたうえで見えてくるものではないかな、とも思ったわけです。

引用2

 最初は出版社のかたから、「ルーマンについて本を出しませんか」とお誘いを受けたが、興味がないと断わった。しかし、エスノメソドロジーなら出そうと思った。なぜか。
 本というのは、自分が面白いだけでは出せない。今回の『概念分析の社会学 ─ 社会的経験と人間の科学』ではミーティングをたくさん重ねたが、エスノメソドロジーをやっている研究者は、「あなたはこういう言葉を使うけれども、これはどういう意味ですか」という質問を許してくれる。共同研究、ディスカッションができる。 しかし理論社会学者は「ひとり一看板」で、集まってミーティングを重ねて本を出すということができない。

これは──「あなたはこういう言葉を使うけれども、これはどういう意味ですか」という質問を、たいていの研究者は許容してくれるので(^_^;──まずい例でした。


ここで述べたかったことには、「程度の問題」である側面と そうではない側面がありますが、まず前者のほうについていうと。
指摘したかったのは、

  • エスノメソドロジー研究においては、研究自体に組み込まれている「協同作業」の量が半端ではない」ということがあり、
    そのことが、
  • 私のような部外者が出かけていって「インテンシヴな研究会をもとにした出版をしませんか」という働きかけをしやすかったこと、
    また、そうした呼びかけに応じてもらいやすかったこと と、大いに関係しているだろう

というくらいのことでした。

 一般に「研究」の最初にして最大の顧客は同業者(=つまり研究者)ですし、また「研究」というものは「先行研究」なしには成り立たないわけですから、少なくともそのような意味で、一般的にいっても「研究」というものは 共同作業という側面を必ずもつのだろうと思います。

フィールドを持った研究の場合は、ここに「フィールドとの関係」の問題が入ってくるので、なおさらそう言えるでしょう。


 ただ、エスノメソドロジー研究の場合、たとえば研究の手がかりとなる(たとえば録音・録画物などといった)経験的なマテリアルを「観る・聴く」というところから もう協同でやってしまう(=いっしょに観る・いっしょに聴く)、ということをしばしば行なうわけです(ex. データセッション)。 そして、いわゆる「研究会」が、多かれ少なかれ「研究成果(or 途中経過)を報告する」場所であるのと比べて、これはかなり質の異なった作業であるように思われるのでした。


 ここでもうひとつ指摘しておいてよいのは──ここから先は「程度の問題」ではない側面に相当するかもしれませんが──「エスノメソドロジー」という言葉が、

  • a) 人々の方法論

と、

  • b) a についての研究

との双方を 指すものであることです。

あえて a と b を明確に分けて話したいときには、先日の報告でもこのエントリでも、後者 b を「エスノメソドロジー研究」と呼びました。

そして、

ということからして、

  • c) b を進める際の やり方──つまり方法──についての反省的検討

も、それはそれで──たとえばデータセッションの場において──自覚的に・協同的に進められる、というわけなのでした。

もちろん「事情の許す限りにおいて」であって、いつもそうできるわけではないでしょうが。ただ逆にいえば、事情が許す限りは──私の見聞の範囲では、ですが──彼/女たちは躊躇なくそうするわけです。
そして、もはや指摘する必要はないかもしれませんが c そのものも、これはこれで エスノメソドロジー と呼んでよいものです。


こうした事情があるために、「もしも私(=酒井)が、こうした共同作業をさらに促進するような 場・状況・機会 をつくるための支援ができるなら、それはエスノメソドロジー研究にとって かなり直接的でそれなりに意味のある 貢献をおこなったことになるだろう」とか、「おそらく彼/女たちは、それに協力してくれるだろう」とか といった 見込みが立ちやすかったわけなのでした。

そして こうした事情があるからこそ、『エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ (ワードマップ)』* も 『概念分析の社会学 ─ 社会的経験と人間の科学』** も、──執筆には参加しなかった方々も含め──実際に多くの研究者たちの協力を得ることができ・実際にインテンシヴな研究会をすることができ・実際に出版することができたのだろう、というわけです。




 敷衍はここまでにしておいて、最後にひとつだけ、「理論研究者」へのフォローも書いておきます。
 引用2に述べたことは、すでにルーマン・フォーラムでも何度も述べており、撤回する気はありません。しかし、「理論研究」も──少なくとも上述の「一般論」の枠内では──共同的な営みではあります。ただそれは、ほかの研究のあり方と比べて 非常にゆっくりとした──論文出版のテンポに依存した──ペースで進んでいくのだ、ということではあるでしょう。そのことは付け加えておいたほうがよいかもしれません。


このエントリは以上です。