シュテンガー「時間の諸次元と力動性」

何もする気が出ないときの現象学。ロンバッハとルーマンの時間論の比較。

ゲオルク・シュテンガー(2008)
「時間の諸次元と力動性──システム論に対する現象学の批判」
[原文][山口一郎 抄訳]
in 『フッサール研究』 第6号:特集「応用現象学の展開」
  1. 内的時間意識(フッサール
  2. 現存在の時間性(ハイデガー
  3. 時間の力動的生起──構造現象学(ロンバッハ)とシステム論(ルーマン


またつまらぬものを読んでしまった。



著者の指摘のうちのいくつかは、限定つきでなら「正しい」とは思う。
たとえば、ルーマンは 「志向性」の働きを──そしてそれだけを──重視しすぎており、それどころか、志向性こそが(そしてそれだけが)現象学的な意識分析の核概念だと捉えているふしがあり、そして/しかも、「志向性の働き」に準じたかたちで コミュニケーションの「作用(operation)」についての議論を組み立ててしまっているように思われる*。これは現象学の摂取としてもコミュニケーション論としても誤ったやり方だと私も思う。もしも著者が、ルーマンは「志向性」と「構成」とを間違って結び付けていると指摘するときに、そういうことを言いたいのなら──そうかどうかは判明ではないのだが──それは正しい。

* コミュニケーションは「主題-と-寄与**」でもって分節される といった──「戯画化された現象学」とでもいうべき──主張が出てくるのは そのためだろうと私は推察しているのだが。
** 〈コミュニケーションの焦点 -と- (それに対する コミュニケーション参与者たちによる) 一つ一つの指し手〉。


また、ルーマンに「構成分析がない」という指摘も(限定付きで)正しいと思う。ただしそれは「システム論の弱点」ではぜんぜんなくて、単に「ルーマンの弱点」であるに過ぎないとは思うけれども。ただ、そのことを、次のような形で指摘されると読者としてはびっくりしてしまう:

通りすがりに指摘しておくと、もしも著者の批判が、「複雑性の縮減」なるものの身分は定かではない、という趣旨であるならば、それも正しいと思う。しかしそもそも、ルーマンの謂う「縮減」をフッサールの「還元」と──言葉がおなじであるからといって(!)──単純に併置して比較するのは単純に間違っている。

システム論は、常にすでに「実在性」をシステムの外であれ、内であれ、仮定している。「自己言及的システムの理論は、その対象の観察から始まる。」(・・・)フッサールから出発すると、現象学的探求の作業は、あらゆる種類の観察をその超越論的前提構造を解明するために、度外視する。そうして、生活世界は、決して、周囲世界という特性をもつことなく、その沈澱した形式において、人がすでに忘れてしまった精神的意味の潜在性を指摘する。現象学的還元は、この沈澱した層の開示と露呈を可能にするのであり、それによって、進歩を信ずる諸学の表層的生に対して、人間存在の「深い生」が突きつけられ、そこにおいて、人格の自由、歴史性という独自の時間次元、隣人性等々が、問題にされるのである。[...]
フッサールの還元の概念は、内側から始まっており、以前にみえなかったものが見えるというようにあるのであり、すでに見えているものを観察し、記述するのではない。態度(フッサール)、学問上の習性と生活上の習性とは、全体に見て、異なっているのである。

Das ‚Wie’ fußt also doch auf dem ‚Was’, und sei es das selbstreferentielle System, so dass
die Systemtheorie immer schon „Realität“, ob innerhalb oder außerhalb ihrer, annimmt. „Sie (die Theorie selbstreferentieller Systeme) beginnt mit der Beobacht- ung ihres Gegenstandes.“ (ebd.) Mit Husserl beginnend sieht aber die phänomenologische Forschungsarbeit gerade ab von jedweder Beobachtung, um deren transzendentale Voraussetzungsstrukturen zu eruieren. So hat etwa auch die „Lebenswelt“ keineswegs Umweltcharakter, sondern gemahnt in ihrer sedimentierten Form an die geistigen Sinnpotentiale, die der Mensch gleichsam vergessen hat. Die phänomenologische Reduktion erlaubt also die öffnung und Freisetzung dieser sedimentierten Schichten, wodurch dem „Flächenleben“ der fortschrittsgläubigen Wissenschaften das „Tiefenleben“ des Menschseins entgegen gesetzt wird, worin es um personale Freiheit, um Geschichtlichkeit - eine eigene Zeitdimension! -, um Mitmenschlichkeit usf. [...] Husserls Reduktionsbegriff ist indessen von innen her angesetzt, was etwas sehen lässt, das zuvor ungesehen war, nicht lediglich schon Gesehenes beobachtet und beschreibt. Die ‘Einstellung’ (Husserl), die wissenschaftliche wie lebensmäßige Habitualität, ist im ganzen eine andere.14

これでは「ルーマンフッサールとは違う」からだめだ、と言われているかのように聞こえる。

そう言っているのか? であれば、答えは「知るかそんなことw」だよなぁ。
しかも、「すでに見えているものを観察し、記述するのではない」などという主張は、ほかの現象学者たちですら認めるかどうか怪しい主張ではないだろうか。(あるいはひょっとして、現象学者たちは「すでに見えているもの」を手がかりにして研究を開始するわけでないのだろうか???)


著者は、検討すべき問いを間違っているのである。問われるべきは コミュニケーションの対象は-コミュニケーションに対して-どのように与えられるのか ということであり、また示されるべきことは コミュニケーションにとって時間は構成的である ということなのではないだろうか。

著者が立てているのは、「なにかが なにかとして分析に立てられうる以前に、客観的時間(...)として知られているものがどのように意識にとって構成されているのか」という問い「だけ」である。ここには、目下の批判対象であるルーマンの議論-に即した/に対して適切な-問いを立てようという配慮が見られない。
こうした提題は、「フッサールに対して」ならば適切なのかもしれないが、しかしルーマンに対しても同じように そうすることが可能であるのは、著者が、なぜそこで引き合いに出されるのが「意識」でなければならないのか という問いを 決して立てない限りで、である。

そして、上記の問いと、それに対する解答は、レジュメ的・速記的なもの であれば、ルーマンのテクストのなかにも確かに存在する(のに、著者はそれを見逃しているわけだ。それは 検討対象を、ルーマンの「哲学っぽい」──というか、よりスペキュレイティヴな──テクストに限定してしまったからかもしれない)
したがって問題は、ルーマンが問いを立てていないことにではなく、それに対して真面目に*取り組まなかったこと

実際に、システム分析の中で、原則的かつ首尾一貫した形でやってみせなかったこと、
つまり、システム分析を構成的分析として遂行しなかったこと、フッサールが「作業哲学」と呼んだものに相当する仕事がないこと、

のほうにある、と私は思う。

* と書くとルーマンが「不誠実」であったかのようだが、そうではなくて おそらくは、それを どうやってやったらいいのか を思いつかなかったのだろうw。
そして そのかわりに、この位置に、たとえば「コミュニケーション・コード」とか「コミュニケーションのパラドクス」のような 理論的な装置 が登場してくるのである。


もう一点。ルーマンは、フッサールの議論を「意味の三次元」という定式でもって引き継いだが、フッサールの議論が「対象の構成」の方向に向かっているのに対して、ルーマンの議論は、基本的には、「三次元の(社会進化的)分化」という方向へと向かっている。その点に限っていえば、「対象の構成」についての分析が手薄であることは、「哲学者と社会学者の分業」という側面もあるとは思う。つまり、ここで社会学者は「そちらの仕事は哲学者のみなさんにお任せします」と述べても構わない(という側面もあるの)ではないか、とは私も思うし、その限りではルーマンを擁護したい気持ちも(少しだけ)ある。
ただ、そうはいっても、「コミュニケーションにおける対象の構成/対象についてのコミュニケーションの構成」という問題(=構成分析という課題)は、それ自体やはりすでに「社会分析」の重要な課題なのだから、その点からすれば、ルーマンの議論はやはり擁護しがたい。

しかも、社会秩序にとっての時間の構成的な働き について 経験的研究として取り組んでいるエスノメソドロジー・会話分析の諸研究を傍らにおいてルーマンを読むときには、なおさらそのように思われてしまうわけである。というか、天を仰ぎたくもなる。


しかしいずれにせよ著者の「批判」は、そうしたことを検討できる水準には届いていないと思う。ルーマンの議論に問題があることは、著者の批判が的確であることを意味するわけではない。